2012年01月28日
リトル・ミス・サンシャイン
中森です。
今朝の降雪はそれほどまででもなかったが簡単に除雪をした。とはいえ雪がまったくなかった一週間前とは大違いである。木曜日の朝に降ったまとまった積雪を見て、急いで2店舗の除雪を行ったためか、その後肩の痛みが強く出るようになった。それでなくても上腕から肩にかけての痛みは冬場に入りひどくなってきていた。そのため木曜日の夜には疲れもあったことも加えゆっくりと低温のお風呂に使っていたら金曜日には不思議と和らいでいた。肩の痛みにはこうすることが一番良いということに気がついたのも除雪の功名と理解している。
木曜日の様子
先日の日曜日、直江津での北陸信越薬剤師ブロック会議に参加したあと、帰らずに東京まで翌日の日本薬剤師会の委員会出席のため足を運んだ。
その日の直江津はまったく降雪はなく世界の豪雪地帯の入り口の様相はなかった。ほくほく線でそのまま越後湯沢に向かう。何度かトンネルを越えていくにつれ積雪がどんどん増していっているのがわかる。やがて積雪2メートルという豪雪の世界を見ることになる。
越後湯沢駅
越後湯沢・寒波が来る前
そんな時十日町に流れる信濃川が見えた。日本の原風景を見ているようで水と雪と山々によって作り出される絶景に感動する。白と黒と僅かに見える空の青空。そこには雪で閉ざされた純粋な地球があった。
電車に乗って、東京まで行くのは何年ぶりだろうか。宿泊とセットでとると航空機のチケットのほうがとても割安のため電車は選択肢のうちにまったく入らなくなっていた。ただ条件がひとつだけあり一週間前には予約を入れなくてはならないのだが、ホテルのランクによっては航空券だけの金額よりも安く買うことができる。
今回は久しぶりに電車で行くことになったわけだが、越後湯沢での新幹線の乗り換えに戸惑うことになってしまった。というのは、会議が予定より早く終わったため直江津発の電車を一本早やめて自由席に乗ったからである。その時間帯の自由席は思ったよりも込んでいてやっと一席見つけることができた。しかしこの人たちが越後湯沢で乗り換えるとなると大変だなと思っていた、なぜなら季節はちょうどスキーシーズンのためスキー帰りらしき人たちも多く見受けられたからである。越後湯沢についてドアが開いた瞬間自由席を下りた多くの人たちが一斉に走り出したのを見て、その集団と張り合う気持ちは萎えてしまった。予定通りの列車に乗ることにして越後湯沢で途中下車することにした。
改札を出るとスキー客や観光客を見込んだお土産屋さんの巨大な売り場があった。その一角に本屋さんがあったのでまずそこに入る。本屋があると必ず入るというのはこれは僕の長年の習性であろうか、入り口近くには川端康成の「雪国」が置いてある。ここでの雪国とは湯沢のことだったのかと思う。
お土産屋さんではそれぞれ工夫を凝らしたお土産が威勢のいい売り子さんとともにあった。ほとんどがスキーウエアを着た人たちで、僕のようにステンカラーのコートを着たものはまず見かけないため、集団の中では浮いてしまっているように思ったのであった。しかしよくよく考えてみる。薬剤師が白衣を着て街頭に出るとコスプレになる、セーラー服を着て秋葉原に行くこともコスプレなのだろう。そのためスキー客に混じって勤務者の格好をすることはコスプレの拡大解釈としてもいいのではないだろうかと、時々投げかれられる場違いという視線を多少気にしながらその落差を楽しんでいた。
越後湯沢から新幹線に乗ると、あっという間に東京駅に着いた。
翌日、前日のコースの逆をたどる。トンネルを越えると大量の雪が降っていて、そのときまさに豪雪地帯に入ったのだと感じた。前日までの天気とは一変し寒気が入り込んできたのであろう、真冬の様相を呈していた。十日町はさらに雪に覆われていた。これが本当の雪国の冬の状態なのだと実感する。
そんなことを思うと金沢はとても降雪の少ない雪国だ。実際富山県よりも福井県よりも不思議と石川県のほうが、とりわけ金沢の降雪はぐんと少ない。地形の関係であるのだろう。それに加え浅野川と犀川という二本の川に挟まれたきわめて敵に攻め込まれにくいロケーションに築城した加賀藩の叡智があったのかもしれない。
車窓から眺めていると富山県までは同じような降雪状態であったが金沢につく直前になると雪は降っておらず何と言えばいいのだろうか、日のあたる場所に着いたかのようなそんな土地の力を感じたのである。
金沢でほどほどに降る雪を見ながら日本酒とともに食事をするのも乙なものである。
今回、本は3冊持っていった。これだけ長い時間列車に揺られるのだからと思ったのであったが、小刻みに刻まれた乗車間隔のためか思ったほど本に集中できない。結局1.8冊読んだ程度。本のページにもよるのだが思ったほど読めなかった。出張時の本の選択に関してはこだわりがある、かばんに何冊も入れると重たいので文庫本か新書本を持っていく。内容が硬い本は眠たくなるのでできるだけ避け、比較的感情移入できそうな小説、短編集やエッセイとなる。まあこれも長年のノウハウを溜め込んだ出張の技法のひとつなのだが、そのため家で読んでいる本と平行して読むことになる。
その時読んだ本の中で一番心に残った言葉が以下である。
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「アメリカそのものがミスコンなんだ。そして、みんな出揚できると思い込んでるけど、
本当は僕らはみんな敗者なんだよ!」
「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか」 町山智浩著
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ほとんどの皆は僕をはじめとしてミスコンやイケメンコンテストに出場すらできない敗者なのだ。それでないにしてもあらゆる面で敗者の汚名をひたすらかぶり続けて生活していることに気づかされた。文章は次のように続いていく。
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その言葉は観客の心をえぐる。
それでもアメリカ人がこの映画を愛したのは、バラバラの家族が力を合わせてオンボロのヴァンを押す姿が開拓時代の幌馬車を彷彿とさせたからじゃないか。貧しい移民たちは西にあるといわれる約束の地を目指した。道なき荒野で幌馬車はしばしば立ち往生した。家族は力を合わせてそれを押した。途中で誰かが死んでも幌馬車は西を目指して進み続けた。それは何度裏切られても夢を信じ続けるアメリカ庶民の原像だ。
日本の映画マニアはやたら「ロードムービー」という言葉を口にして、アメリカ映画のマネをしてロードムービーを作ったりもするけれど、アメリカ人にとってロードムービーには以上のように歴史的に重要な意味がある。アメリカンメドリームを見失ったとき、アメリカ映画の登場人物たちは大陸を横断する旅にでる。そして何の保障もないまま未来をただ信じて果てしない荒野を進んでいた先祖たちに思いを馳せるのだ。
「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか」 町山智浩著
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この映画とは「リトル・ミス・サンシャイン」のこと。
http://movies.foxjapan.com/lms/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9879/index.html
僕も以前見たことがあったがこれは最高に面白い映画である。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2012年01月14日
「泉」 マルセル・デュシャン
中森です。
今週も連休からカズオ・イシグロの本を読んでいた。「日の名残り」と「わたしが孤児だったころ」。「日の名残り」はイギリスの名家の執事として、一つのお屋敷を代々二つの家主に仕えてきた執事の話だ。それを1月8日の県立音楽堂でグリーグのピアノ協奏曲を聞きに行ったときの合間にも読んでいるほど、静謐な文体に魅了されていた。
このときのピアニストはオット姉妹の妹であるモナー=飛鳥・オット。彼女はお姉さんよりも重厚な音質でゆったりと聞かせてくれる感じだ。しかし彼女はまだ20歳ぐらいだろうか、まさに天才姉妹である。聞いていたのは3階のしかも一番後ろの席であった。望遠鏡でのぞく。彼女はとても長い指をしているのが分かる。きらびやかなオーラを発しながら実に表情豊かに弾いていた。
家には佐渡裕がベルリンフィルを指揮した時のDVDが届いていた。ショスタコービッチ交響曲第五番。大きな音量ときわめて強い音での演奏。佐渡裕は指揮台に立つと音楽の神様が憑依しているのではと思う瞬間がある。それは神様から操られて指揮を振る霊媒師のようであるとも感じたのである。まるでショスタコービッチが作曲した当時の社会主義に突き進む国家の体制を音楽で暗に批判している、そのときの感情が伝わってくるようだ。
「マルセルデュシャンの作品「泉」は普段からわれわれの生活の中に美が溢れていることを教えてくれたように思います。」というと某美大の教授の先生は「まさにあの作品はギリシャ時代から面々と続く美術の歴史の中での転換点で最も偉大な作品でした。」とおっしゃられた。水曜日に行われた有志三師会の会食会でのことである。その日先生は講師としてこられた。
建築はマキシマリズム的な様式を好まれるそうで、そのため21世紀美術館の評価は低かった。一方アントニオ・ガウディーやかってのドイツで活動したデザイン集団であるバウハウスがお好みとのこと。家に帰り工芸家である先生の作品を見た。テクスチャーへのこだわりを強く感じ、素材や肌触りを大切にする人だ理解する。そのために先生が仰られた話の意味するところもわかったように思えた。
僕は対極のミニマリズム派である。これはお金がかかる装飾に理解を示さない僕のような貧乏人の発想かもしれないが、その中に禅の思想があると開き直っている。
その先生がスティーブジョブズの自伝を読み素材に関する記述が実に参考になったと仰られたので、「わたしが孤児だったころ」を読み終えた昨日から、だいぶ前に買い置いてあった彼の自伝を読み始めた。
と、なんとなくとりとめもない内容になってしまった。
今日はこんなとこである。
では
中森慶滋
2012年01月07日
わたしを離さないで
中森です。
お正月をはさみ、この一週間はさまざまなことに心が揺れ動いた。そのため一週間ほど旅行をしてきたかのような感じだ。一週間前はちょうど大晦日であった。その日テレビで放映したベートーベンの第九は不思議な感じだった。実際の演奏は12月の後半だったので生中継ではなかったようだがソリストが舞台左側に集結して歌った。
途中から見たのでその経緯や今回の演奏の背景は説明されていたのかは分からないが、とても感情を抑制したかのような演奏であり合唱であった。なんだか盛り上がらないなと思っていたところ2006年のウイーンでのニューイヤーコンサートでロリンマゼールが恒例となっている最後のラデッキー行進曲を取りやめたのを思い出した。その時は一週間ほど前に津波がスマトラ周辺を襲った鎮魂のためとの説明があった。
今回の第九はそのような意味もこめられているのだろうか、ホントはこのように演奏や放映は自粛すべきだったのではないだろうかとも思ったのではあったが、あえて鎮魂の意味をこめて演奏することが必要だったのかもしれないと思いながら聴いていた。
その3月11日から長年の習慣が途絶えたことがひとつだけある。
それまで音楽番組やドキュメンタリー番組を録画してDVDに焼き車の中で見ていたのであったが、その日から車の中では災害の様子を見続け、テレビ番組が平常状態に戻ってもDVDを見ることはなくHDにコピーした音楽を聴いていた。ここ年末になり番組を録画して再びDVDを焼くことにした。留守録画をしておいた番組がいくつかたまっていたのである。
車の中でDVDを見るという習慣をなくしてしまった事、それが僕にとっての鎮魂を意味したのだと思う。内田裕也は英語で言うと石巻はロックンロールだ「なにか縁を感じる」と言ったそうだが、僕も訪れた石巻。そのためなおさら以前の生活には戻れないような気がしていたのだが何かのきっかけを待っていただろう。
録画しておいた番組の中にNHKの「カズオ・イシグロを探して」という番組があった。英国作家であるイシグロ氏を福岡伸一氏がインタビューする。代表作「わたしを離さないで」についてイシグロ氏はこう語る。
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「この設定はメタファーとして選んだものだ。でも実世界でも誰もが病気になるし、誰もが死に至る。クローン人間という特異な状況を用いれば人々になんと奇妙な存在だと思ってもらえる。そして私と映画制作者の狙いは物語が展開するにつけ、映画を観る人、本を読む人々に気づいてほしかったんだ。これがすべての人に当てはまる人間の根幹を描く物語だということを」
「しかし大人へと成長する過程で子供たちはある種の失望感を覚えるのではないでしょうか。世界が優しい場所だという記憶がまだ残っているのですから。ノスタルジアは決して存在しない理想的な記憶なのです」
ETV特集「カズオ・イシグロをさがして」より
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未読の本がどんどん増殖して行く中、1月1日の夜近くの本屋さんに行き「わたしを離さないで」を買ってきた。急いでそのとき読んでいた本を読了させ読み始めた。
静謐な文体が僕の心をひきつけていく。提供者と呼ばれている主人公キャシーはトミーやルースとともにイングランドのへールシャムという寄宿舎で生活をしていた。彼らは人の細胞からクローン技術によって作られた。そんな彼らには提供するという明確な目的があった。彼らの臓器は成人したときに他人に移植され何度かの移植の後、その使命を終えさせられた。そのような境遇に生まれたキャシーたちを子供の時代から描き、揺れ動く感情をきわめてイギリス的な淡々とした文体でうめつくされていた。
彼らが成人し提供を待つ施設に移されたとき、ルースのポシブルを見かけたと聞いた。
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ポシブルの理屈自体は簡単で、とくに問題となるような要素もありません。わたしたちはそれぞれに、あるとき普通の人間から複製された存在です。ですから、外の世界のどこかに、わたしたちの複製元と言いますか、「親」がいて、それぞれの人生を生きているはずです。とすれば、その「親」と偶然出会うことも理論的にはありうるでしょう。外の世界に出かけるとき、わたしたちは道でもショッピングセンターでもサービスエリアでも、自分の・・・あるいは友達の・・・「親」に出くわさないか、いつも目を凝らしていました。これはと思う人が見つかると、「親」の可能性があると言う意味で、「ポシブル」と呼んでいました。
「わたしを離さないで」 カズオ イシグロ著
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福岡伸一氏は番組の中で不思議なことをイシグロ氏に語る。
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「しばしば人は“これは私の幼少期の素晴らしい記憶だ”“鮮明な記憶だ”と語ることがあります。私はそれは操作された記憶だと思うのです。感傷的な記憶や美しい幼少期の記憶だと、ペットのように飼い慣らされた記憶だと。記憶は繰り返し思い返すことで飼いならされ無意識のうちに美しく変更されています。つまり操作されているわけです。あなたの小説にも似たエピソードや物語が見受けられます」
ETV特集「カズオ・イシグロをさがして」より
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確かに記憶とは、自身によって作り出された飼いならされたペットのようなものなのかもしれない。それは美しく装飾され心地よく心の奥底で存在している。そんな記憶があるからこそ自分の存在を認識し確認することができるのだろう。
翌、2日は初売りで街の中心地はごった返す中、シネモンドに行って映画を見てきた。
10時30分上映開始とあるのに25分になっても駐車場に入れない。その長い列を見るまではきっと間に合うと信じていたのに、その思いも収束してしまう。もう間に合わないなと思ったとき、列とは別に通り抜けることができるスペースを見つけた。ここを通って帰ろうと思った。少し行くとコインパーキングが一台分空いているのを見つけた。不思議な感じだ。この映画を見ろといわれた様な気がした。急いで駐車して、家族と一緒に福袋に沸き華やかに着飾った娘たちの間をすり抜け、109の映画館に駆け込むと30分はとうに過ぎてはいたが、いまだ予告フィルムを流しているところであった。映画は最初から見ることができた。
見た映画は「エンディング・ノート」癌で余命を宣告された父を娘が撮り続けたドキュメンタリーである。
http://www.ending-note.com/
熱血営業マンとして高度経済成長期に会社を支え一部上場会社の専務まで上り詰めたサラリーマンである砂田知昭氏は、67歳で40年以上勤めた会社を退職し第二の人生を歩み始めた。その矢先、ガンが発覚し半年の命と宣告される。残される家族のため、そして人生の総括のため、彼が最後のプロジェクトに乗り出す。それは自らの死の段取りをつづった「エンディング・ノート」を作成しそれを基に「終活」することだった。
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E7E2EBE6E7E6E2E0E4E2EBE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE0E7
リチャード・C・フランシスが書いた、エピジェネティクス「操られる遺伝子」を読んだ。「エピジェネティクス」とはDNA配列は変化しないままDNAの性質が長期的あるいは恒久的に変化することを示す。このランダムに起こる遺伝子の付着や分離は、食べ物や環境汚染、社会との相互作用によって引き起こされると言う。つまり環境と遺伝子が作用しあう領域でおこっていることになる。癌細胞については次のように記述している。
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カリフオルニア大学バークレー校のミナ・ビッセルのグループは、普通の乳房細胞の基本的性質を模した人工の乳房組織を構築した。そしてその環境に悪性の乳がん細胞を導入し、その後の経過を観察した。ビツセルは平然としていたが、その結果に多くの人は驚いた。なんと、がん細胞が正常化したのである。がん細胞ががん性を喪失したのは、正常な乳腺細胞との相互作用によるところが大きいが、もう一つ重要な要素として、細胞が浸されているゲル状の基質の化学組成も無視できない。この基質は、正常な状態でも、がんの状態でも、細胞どうしの化学的な相互作用を支えている。
注目したいのはビツセルの経歴で、彼女は発生生物学を研究した後にがんの研究を始めたため、正常な発達を支える細胞の相互作用について、十分な知識を持っていたのである。彼女を始めとする組織由来説の支持者は、がんは正常な発達が破綻した状態であり、その破綻は、場合によっては自動修正される、と考えている。そしてこの自動修正は、幹細胞でも、完全に分化した組織でも起きる。
微小環境に注目する人々は、がんは、細胞間の相互作用の破綻から生じると考えている。細胞間相互作用が破綻すると、細胞の内部環境が変化し、低メチル化などのエピジェネティツクな変化が起きてがんが発生する、というのである。そして、発がん物質ががんを引き起こすのは、それが細胞の相互作用を破綻させるからなのだ。この見地から細胞組織を監視していけば、SMTの立場で見ていくより早期にがんを発見することができる。また、がんの治療は、正常細胞ががんに立ち向かうのを助けることに重点が置かれるようになるだろう。それは現行の放射線療法や化学療法とは逆の方向からのアプローチとなる。
エピジェネティクス「操られる遺伝子」 リチャード・C・フランシス著
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今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年12月24日
The Christmas Waltz
中森です。
今朝も先週と同様に街はうっすらと雪化粧をしている。寒波の程度が心配されたもののホワイトクリスマスだ。今日はThe Carpenters のThe Christmas WaltzをYoutubeから恋人たちに贈ろう。
昨日は、寒波襲来という予報だったので、覚悟はしていたものの雪は積もることはなかった。そんな中、日本薬剤師会から役員の先生方をお呼びして会議が開かれた。遠方からこられたので先生方は相当心配されていたようであったが杞憂に過ぎなかった。
会議が終わり書斎で本を読みだす。デヴィッド・ゴードン著の「二流作家」早川ミステリーのシリーズだが、東京の本屋さんにたくさん積んであった。後日、近所の本屋で買ってきたものを早速読み始めたのだ。
さほど売れることはない、倒錯する愛をテーマにした小説を書く二流作家に、猟奇的な連続殺人を犯した死刑囚から、自分が犯した犯罪の自伝を書いてくれと頼まれる不気味な内容だ。
ハンニバル・レクターを思わせる個性的な犯人に監獄で出会うシーンを読んでいるとき、外を見ると軽やかに雪が舞っていた。
それを見たとき、こんな雪の世界の中ではバロック音楽をかけなくてはと、急に思い立ちバッハやヴィバルディーのメジャーものではなくではなくScarlattiのハープシコードの演奏、そしてHeinrich Schutzの聖歌などをかける。部屋の空気が一変して神聖な空間に囲まれる。本はエロス〈生の本能〉とタナトス〈死の本能〉の究極のストーリー。そんな祝日の夜であった。
今週、北朝鮮の金正日氏が亡くなり、多くの報道に接することとなったわけだがワイドショー番組から全国紙まで、泣いているのは最前列だけ、やたら大げさに泣いている、などと関心の程度がいかがかと思う内容である。確かに演出しているかのように泣いているように見える、しかしわれわれの感覚で理解してもいいのだろうかと思う。
僕が幼少のころ母が知人の家族の葬儀から帰ってきた時ポツリとこういった。「泣き女がいたわ」母も初めて行った朝鮮系の葬式だったようである。
それから母は悲しみを演出するために朝鮮民族の人たちは泣くことを職業としている人を葬儀に呼ぶことがあると僕に教えてくれた。日本では悲しみをぐっとこらえるのが葬儀の美徳としてあり、そのことで悲しみをいっそう誘うものであるが、そうではない人たちもいることを幼い時に理解した。
今回の報道は、葬儀に泣き女がいる文化を理解する報道姿勢が必要だったのではないだろうか。僕が9歳のときに亡くなった数少ない母の思い出である。
亡くなった話としては印象的だった小池真理子氏の小説「エリカ」を思い出した。
妻が風呂場で無くなっているのを夫が見つけた。急死であった。浴槽の中には携帯電話が落ちていた。きっと電話をかけて夫や娘たちに助けを求めようとした、しかし間に合うこともなく亡くなったと夫は涙ぐむ。
医師の話では意識が完全に無くなるまでには2-3分の時間があっただろうという。その間に指でボタンを押す力もなくなり手から携帯電話が滑り落ちたのだと。
ところが亡くなった彼女をよく知る主人公は「そうだろうか」と思う。
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蘭子は瞬時にして自分の死を悟ったのかもしれなかった。さもなければ、このまま自分は意識を失い、しばらくの間、元に戻れなくなる、と確信を抱いたのかもしれなかった。
そうなったら、携帯の送受信記録や残されたメールを家族に読まれてしまう可能性がある。蘭子の携帯には、ぎっしりと秘密が詰まっている。それは蘭子のこの三年間の、生きた証であると同時に、動かしがたい不貞の証でもある。それを見られることを恐れるあまり、最後の力をふりしぼって、蘭子は自分の携帯を湯が張られたバスタブの中に落としたのかもしれなかった。
「エリカ」小池真理子著
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上記の引用のために持ってきた文庫の裏表紙を見た。ブックオフの105円のシールが張られていた。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年12月17日
金沢の冬の始まり
中森です。
今年の冬の到来は遅いものだと思っていた。その証拠に自宅の「やまぼうしの木」の紅葉が遅れ、いまだすべて落ちきっていないのを微妙なものだと感じていたからである。しかし昨日夕方を過ぎてから、雪が降り出した。積もるまでいかないだろうと思っていたらどんどん降り積もりあたりは真っ白の雪景色と変わってしまった。
そんな雪景色を眺めながら書斎に籠もろうとしたら、21時近くになってオーディオ専門店のNさんが訪ねてきた。僕の書斎には小さなコンポーネントが置いてあり、実質的に一番よく聞いているのがこのコンポーネントで再生される音楽である。このJBLのコンポーネントもNさんから購入した。
小さなスピーカーとはいえ、聞き込んできて2年近く、次第にスピーカーの音がまろやかになってくるとともに僕が聴く音楽に順応してくるのがわかるだけにスピーカーとは不思議なものである。以前このブログでも書いたことがあったかもしれないが、そのJBLのコンポーネントのアンプが故障したとき、Nさんはマッキントッシュの代替機を持ってきてくれたためさらに高音質の世界を知ることになる。
そんなNさんはカレンダーとマッキントッシュのカタログを持ってきていた。さり気なく売り込もうというのであろうが、押し売りをしないところがNさんのいいところである。むしろ現在のシステムを聞き込んで愛着を持ってほしいという。Nさんも僕の性格をわかっているようで、オーディオの機械マニアではなく、ジャズとクラシックを中心とした音楽愛好家のタイプであるということを重々承知しているのである。
書斎に上がってもらったとき、こんなのがあるんですよと言い1939年録音のブラームスの第四番をかける。戦前の音が重厚にもよみがえる。それからしばらく部屋を眺めていた。そしてこの部屋で鳴らすことを考えたときに、絶妙のスピーカーの置き方をした店があるんだという。ちょうど今からその店にカレンダーを届けに行くから一緒に行きませんかという。運転は僕がしますので中森さんはアルコールでも飲んでいればいいんですよというので行くことにした。
金沢駅近くのその店に着いたときには、雪がうっすらと地面を覆うようになっていた。中に入るとホールがあり、そこは二階まで吹き抜けの構造であった。かかっているCDはマイルスデイヴィス。こういうマニアックなお店としては、オーソドックスと言うか正統派の意外な選曲だ。案外店主は変わりものではないのかもしれない。
ソファーがすべて埋まっていたので少しだけ音楽を聴いたら帰ろうかと思ったら、一組の男女が席をたった。その席に腰を下ろしスピーカーから流れてくる音楽に聞き入ることにする。この店内空間に合わせてNさんはイコライザーで調整したのだそうだ。
雰囲気に浸りながら最初のアルトサックスはキャノンボール・アダレイだったのかと思い出す。ビル・エバンスの音が繊細に響く。
昔からの友人であるM君や村上春樹のエッセイで知ったアイラ島のシングルモルトを注文する。ボウモアやラフロイグはどこに行ってもおいてあるのだが珍しくカリラがメニューにあった。カリラをお願いしてストレートで飲む。とてもスマートで上品な女性のような感じだ。そのあとに飲んだラフロイグは、男性的な強さに溢れている印象を持つ。つまみのチーズが実に引き立ちおいしく感じる。
話好きのNさんと話しこんだ後、もう遅いからといい帰ろうと外に出たときにはすでに雪はやみ、これから長い冬が金沢を覆うんだと思った。しかし不思議なことに何んだろうか、新しい予感がしたのだ。これは言葉にするのはとても難しいのであるが、冬の到来とともに世の中は破壊されるが、その後に来る再生の季節、そのサイクルの美しさを冬の始まりとともに感じたのだろうか。そんな感じがした。
今週読んだ川上未映子氏の「すべて真夜中の恋人たち」の初めの一ページ目に印象的な文章が書かれていた。今日はその本を持ってきていないので引用はできないが、夜の闇に光り輝く美しい情景が描かれていた。
その文章を思い出しながら、時折降ってくる初冬の雪を見ながら思ったのである。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年12月10日
オペラ『高野聖』
中森です。
昨夜は泉鏡花原作の世界初演オペラ『高野聖』を見てきた。その二日前にはキエフ国立フィルハーモニー交響楽団が演奏するオール・チャイコフスキーの演目を聞いてきただけにその興奮もさめやらぬといったところだ。
バイオリン協奏曲と6番の「悲愴」バイオリンのソリストはオーケストラと対抗できずに存在感を出すことはできていなかったが、6番はすばらしかった。小澤征爾氏がベルリンフィルを指揮した6番は永遠の名演となっているだけに、それと比較してどのように聞くことができるか興味深いところであった。
6番は優雅な第二楽章と勇壮なマーチである第三楽章のあとに実に悲しいメロディーで構成されている第四楽章が続く。この対比をどのように理解するかはCDを聞いただけではよくわからない。スピーカーからでは聞き流してしまうのだ。
ベートーベンは第九で歓喜を叫んだ。この世の中は歓喜に溢れていると。しかしチャイコフスキーは極めて仏教的に世の中の本質を描いていた。優雅なことも勇壮な出来事もすべては悲しみに通じている。それも「悲愴」という実に深い悲しみなのだ。死を前にした時それが理解できたと言いたかったのではないだろうか。
心臓の鼓動が次第に弱くなりやがて死を迎えるように『悲愴』はゆっくりと終わる。指揮者のニコライ・ジャジューラは曲が終わっても暫く動こうとしない。ずっと指揮台で止まったままだ。30秒以上もそうしていただろうか。観客は固唾を呑んで見入っている。手を下に下ろした瞬間、場内からは割れんばかりの賞賛の拍手が鳴り響いた。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは1893年に交響曲第6番「悲愴」(作品74)を初演したその9日後の11月6日に急死した。
鳴り止まない拍手を受けて、アンコールはくるみ割り人形から「花のワルツ」まさにチャイコフスキー漬けの一日であった。
そして昨夜は、久しぶりの金沢歌劇座。ホールに入ってうろうろしていると作曲者である池辺氏が歓談しているのが目に入った。場内は空席がほとんど見られないほどの盛況ぶり。なかなかここまで観客を集めることができるなんてたいしたものだと思う。それも泉鏡花と金沢人になじみの深い題材をオペラに仕立てたためなのであろうか。
高野聖とは高野山から諸地方に出向き、勧進、勧化、唱導、納骨などを行った僧を言うらしい。そのお坊さんが山道で富山の薬売りに出会う。薬売りからは悪態をつかれからかわれる。「お坊さん女にもてないから坊主になったと違うかね。それとも俗世間に未練があるのじゃないかね」
途中別れ道に差し掛かったところ、薬売りからはこっちが信州への近道だといわれたためにそちらに行くことにする。薬売りとははぐれてしまったが暫く行くと、人家があることに気がつく。人家から出てきたのは美しい女性。お疲れが見えるので下の谷川に行って体を流したらいかがでしょうかと言われ案内される。体を水に浸していると美女も衣服を脱ぎ始めた。
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「汗臭うはございませんか、わたしは汗っかきですから」とさらりと着物を脱いだ女の肉付きのよい柔らかな肌が、僧の触れる度に、僧はこの世のものとは思えぬ陶酔の世界に浸っていった。
「恥ずかしがらずに・・・・、それとも叔母さんのお世話では、おいやでござんすか」女の悪戯っぽい問いに、僧は「いいえ、、いいえ柔らかな花びらの中に包まれていくようで・・・」と答えるのがやっとだった。「まあ嬉しいことを・・・、こんなお転婆をして、私、川に落っこちて流されていったら、里の人はなんていうでしょうね。」女は妖艶な中にも或る気品を漂わせながら、僧の体に手を回して語りかけた。僧は思わず「白桃の花だと申しましょう」と言った。
オペラ『高野聖』パンフレット「あらすじ」より
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男が女と連れ立って戻ってきたところを見て、無事帰ってきたことを驚く。薬売りは女に馬にされてしまっていたのである。女は男を誘うとはヒキガエルやこうもり、馬など獣に変えてしまう妖怪だったのだ。
ここで一幕は終わる。実際僕が覚えいてた筋もこのような内容であった。そして、第二幕が始まる。展開はどのように行われるのだろうか興味深いところである。
二幕では対比によって揺れ動く人の心の情景が演じられた。僧は聖職を捨ててでも気品のある女の立居振る舞いに心を引かれる自分と葛藤する。女はこれまでの俗な男とは違う純粋な人の美しさを男から感じる。
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人の立ち入れない、閉じられた世界に生きる妖艶な美女の、激しい本能ともいえる情念と、一方、真実の愛を遂げられて人間らしい清楚な女の幸せを求める願いの狭間で、切ないまでに苦しむ女の心情に、僧はやはり切ない愛しさと心残りを覚えつつ山を降りていった。
真実の愛を知った女は「私は魔女ではありませぬ」と、僧の変わらぬ想いを切々と歌い続けるのだが、その歌声は僧の胸に、かっての女の姿そのままに響いていくのだ。
オペラ『高野聖』パンフレット「あらすじ」より
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金沢は闇の街であると栗本慎一郎は『都市は、発狂する』で書いていたように金沢の夜の街には不思議な趣がある。特に鏡花が生まれ育ったあたりには、時間が止まってしまっている。気がつくと異空間への入り口を通り越してきたことに驚く。そのような泉鏡花の世界を描くオペラの初演に立ち会えたことの幸運を感謝する。
一幕でクライマックスは終わったものと思っていたら、さらに深い鏡花の世界が描かれていたことに、金沢の街と同じようだと感じる。それはどこまでいっても飲み込まれてしまい、まるで底がないような闇の街である。
金沢発のこのオペラが長く絶賛されるであろうことを予感させられたそんな12月の夜であった。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年12月03日
泉鏡花
中森です。
昨夜行った郊外型の本屋さん。21時を過ぎていたためか店内のお客さんはまばらで雑多な感じがなく自分のペースで本を選ぶことができる。そのとき店内に流れていたのがジャズシンガーのトニー・ベネットとピアノとのデュエットのアルバム。アルバム名はわからないが、ピアノの生々しい音とトニー・ベネットの軽やかな歌声が店内に響きとてもよい雰囲気をだしていた。
ところが居酒屋ならまだ許せるとしても、和食の小料理屋でもジャズがかかっているのを耳にすることがある。それもブルーノート系のあくの強いジャズ。というかブルースが中心だ。おそらく有線のジャズチャンネルをそのままかけているのだろうが、刺身を食べながらハンク・モブレーやホレス・シルバーを聞きたいとは思わない。ある居酒屋では、ジャズの有名どころのコンピレーションアルバムがかかっていた。これも聞き続けると飽きてくるのではないかと不安になる。
そういえば今週ジャズの往年のドラマーであるポール・モチアンが亡くなったとの報道があった。ポール・モチアンといえばビルエバンスの名盤で繊細なドラミングが聞くことができる。ベースはスコット・ラファロ。フェルメールの名画がこの世に存在しているのと同じように三人のインタープレーはこの世に舞い降りた奇跡のようだ。
今月発売された「小澤征爾さんと音楽について話をする」という本。村上春樹氏と小澤征爾氏が音楽についての対話を収録したものだ。驚かされるのは村上氏の深く聞き込んだ鑑賞力である。世界の小澤氏を相手に彼から言葉を引き出していく。冒頭の部分で村上氏は次のように書いている。
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音楽とは基本的に、人を幸福な気持ちにするべきなものだと考えている。そこには人を幸福な気持ちにするための実に様々な方法や道筋があり、その複雑さが僕の心をごく単純に魅了する。
「小澤征爾さんと音楽について話をする」村上春樹、小澤征爾著
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さらに
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ジャズとクラシック音楽を交互に聴くことは昔も今も、僕のハートとマインドにとってとても有効な刺激に(あるいはまた安らぎに)なっている。どちらかひとつだけしか聴いてはいけないと言われたら、どちらをとるにせよ、ずいぶん淋しい人生になってしまうことだろう。デューク・エリントンが言っているように、世の中には「素敵な音楽」と「それほど素敵じやない音楽」という二種類の音楽しかないのであって、ジヤズであろうがクラシック音楽であろうが、そこのところは原理的にはまったく同じことだ。「素敵な音楽」を聴くことによって与えられる純粋な喜びは、ジャンルを超えたところに存在している。
「小澤征爾さんと音楽について話をする」村上春樹、小澤征爾著
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この前の日曜日、野々市市のホールで毎年恒例のジャズのコンサートがおこなわれた。一部は野々市市を代表するムーンライトオーケストラ。いくつかアマチュアのビッグバンドが石川県に存在するが、そのレベルはプロフェッショナルと対抗してもひけをとらない一流にまでに育っている。と、思いながら二部へと入る。二部では米国から来たジャズコンボの登場だ。リニー・ロスネス(p)が率いていく。彼女のアルバムも一枚持っている。
とてもまろやかな印象の美しいフレーズを多用するピアニスト。彼女を野々市市で聞けるなんてすごいことだと思いながら一曲目、気持ちよく眠ってしまった。そして二曲目も、三曲目も。曲が終わると目が覚めるのだが、始まると眠ってしまった。これはとても気持ちがいいことなのだが、実にもったいないことでもある。なぜ眠ってしまったのかはわからないが、最上の時間の使い方である。
昨夜はミニマル音楽のフィリップ・グラスのアルバムを聞きながら寝ていた。
開演前ホールで演奏していた、女子学生バンド。
来週、泉鏡花の「高野聖」がオペラとして上演される。合唱団を率いるのは薬剤師会の綿谷敏彦先生である。それを聞きに行くのであるのだが、一つだけ謎がある。「高野聖」の主人公のお坊さんだけがなぜ色気立つ女から動物にされることなく無事生きて帰ってこられたのか。
その謎を探ろうと泉鏡花記念館に行ってみることにした。そして鏡花ゆかりの地を歩いてみた。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年11月26日
大竹しのぶ「ピアフ」
中森です。
今朝はこれまでの冬空とは違って青空が広がっている。朝日に向かい車を走らせてきた。朝日の光を受け木々の紅葉が、灯りをともした様に輝いていた。ノルウェーの森の小説の中で直子が「雪で閉ざされてしまう冬の間でも私を覚えていて、私はしっかりと生きているんだって。」と語っているかのようである。
先週の日曜日午前中にふと芥川龍之介の「地獄変」を読まなくてはと思い、文庫を買ってきて読んでいた。さらに追い討ちをかけるように午後からは大竹しのぶの「ピアフ」を見る。そのためその後の僕の精神状態はきわめて不安定な状態に置かれることになる。
「地獄変」とはこんな話である。
京都の堀川に大殿様がいた。良秀はその殿様に仕える絵師であった。良秀には溺愛する美しい一人娘がいたが、殿様に召し上げられていた。殿様には何度も娘を戻してほしいと訴えるがその望みは叶えられることはなかった。
あるとき、殿様は良秀に「地獄変」の屏風を書くよう言いつける。それは紅蓮大紅蓮の猛火が剣山刀樹も爛れるかと思うほど渦を巻き、業火に焼かれる罪人たち、上は月卿雲客から下は乞食非人まであらゆる身分の人間が地獄の中もだえ苦しんでいる様相の図絵であった。
ところが良秀にはどうしても描けない所があるという。それは牛車に乗った高貴な身分の女官が猛火の中黒髪を振り乱しながら苦しむ様相の場面である。それを聞き殿様は、あでやかな女を乗せた牛車を実際に燃やして見せるという。そして殿様はそれを描こうと思いついたとは流石に天下第一の絵師だと褒めた。
牛車を焼くことになった。その中には罪人の女房が縛めたまま乗せてある。この女の最後を遂げる姿を見れば絵を描くことができるだろうと殿様が言う。
松明をかざし牛車が焼かれようとしたとき、牛車に乗った女が見えた。それは良秀の娘であった。良秀は半ば正気を失ったように両手を前に出したまま車のほうに走りかかろうとした。「火をかけい」という殿様のお言葉とともに牛車は燃え上がった。
良秀は車にかけよろうとした足を止め、大きく目を見開き苦しそうな顔をして眺めていた。そのうち良秀の表情に変化が見られた。
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その火の柱を前にして、凝り固まつたように立っている良秀は、――何と云ふ不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責苦(せめく)に悩んでいたような良秀は、今は云いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇(たゝず)んでいるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――そう云う景色に見えました。
しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳(おごそか)さがございました。でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまわる数の知れない夜鳥でさへ、気のせいか良秀の揉烏帽子のまわりへは、近づかなかつたようでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございましょう。
「地獄変」芥川龍之介著
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「地獄変」の屏風絵は無事完成し殿様に差し出された。殿様はあまりのできに膝を打ち「出かしおった」とおっしゃった。
屏風が出来上がった次の夜、良秀は自分の部屋の梁に縄をかけて縊れ死んだ。
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その日の午後赤羽ホールに行き。大竹しのぶ主演の「ピアフ」を見てきた。
伝説によると、パリの路上で生まれたピアフは大道芸人だった父親について街頭に出て歌うようになる。母は歌手で、売春宿だった祖父母の家に預けられる。ナチス・ドイツの占領下では、捕虜となったフランス兵たちを慰問し歌い、レジスタンス活動を行う。ムーランルージュに出演し、イヴ・モンタンと知り合い彼を育てる。ボクサーのマルセル・セルダンと出会い激しい恋に落ちるものの、セルダンの乗った飛行機が墜落し帰らぬ人となる。 同夜、ピアフはニューヨークのクラブで彼のために歌うが、途中で倒れてしまう。「愛の賛歌」は彼女にとっては消しえぬ悲劇の象徴となる。生涯の友であるマリーネ・デートリッヒの支えのなか自動車事故による後遺症や麻薬中毒、アルコール中毒となりステージでもたびたび倒れるようになる。
産経新聞の飯塚友子氏は次のように公演を評している。
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その中で、英女流作家パム・ジェムス描くこの「ピアフ」(常田景子訳)は、全くヒロインに容赦がない。悪意すら感じるほど下品で、男癖も酒癖も悪く、薬物に浸り、わがまま放題で周りに迷惑をまき散らす。その全く美化されていないピアフを、大竹が生き抜く。自分を美しく見せたい自意識が僅かでも働く女優ならできない演技だ。
だからこそ彼女の人生を辿(たど)り、まるでその体験をぶつけたかのような歌が胸を打つ。生涯で最も愛したボクサー、マルセル・セルダン(山口馬木也(まきや))と出会った喜びを、「あたしの神様 見つけたの あたしの安らぎ」(私の神様)と少女のようにはしゃぎ、彼を事故で失った後は酒に溺れ、「あなた去ったあとは 鳥の歌も花の香りも 消えうせる」(あなたが行ってしまったら)と慟哭(どうこく)する。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111029/ent11102908000001-n1.htm
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大竹しのぶが最終部で「愛の賛歌」を歌う。僕は多くの歌をこれまで聞いてきたのだがこれほどまで心に沁みる歌を聴いたことがあっただろうかと思う。
そして最後に「水に流して(私は後悔しない)」を歌う。後ろから4番目の席で単眼鏡を覗き込みながら彼女が歌う表情を追い続ける。この曲は彼女の死の3年前に見出したという曲で「もういいの わたしは後悔しないわ」という内容だ。
力なく呆然と立ち上がった大竹しのぶが、次第に力強く変貌していく。口を大きく開け眼はキッと見開き、歌は高揚していく。実に壮絶だ。ほんの少し視線を上げることで喜びを表す。それまで彼女が演じてきたピアフの人生を歌で表現していく。
単眼鏡と眼の間に水がたまる、そしてそれが流れ落ちた。
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「水に流して」
いいえ、ぜんぜん
いいえ、私は何も後悔してない
私に人がしたよいことも
悪いことも
何もかも、私にとってはどうでもいい
いいえ、ぜんぜん
いいえ、私は何も後悔していない
私は代償を払った、清算した、忘れた
過去なんてどうでもいい
10月18日に開館した
鈴木大拙記念館(金沢)にて 11月23日訪れる
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年11月19日
カルロス4世の家族
中森です。
昨夜12時をはるかに過ぎ1時近くなったころ外の風にあたってみた。生暖かくどんよりとした感じが僕の周りを包み込む。室内より屋外のほうが暖かいのだ。そういえば今日つまり土曜日の最高気温はこれまでとは一転して20度を超えるという。
ここ2-3日若干風邪気味だがとりわけ治療を必要としない程度の症状が出ていた。しかしながら多少の鼻水や痰が気になるのもうっとおしい。市販の風邪薬を飲んでみるのだが、眠気や便秘が気になるためかついつい飲み忘れてしまう。
木曜日には薬局経営者有志で集まった居酒屋で、焼酎をロックで頼んだもののチェイサーをあまり飲まずにどんどんいってしまったものだから、家に辿り着いたころに一気に酔いが回ってしまい、好きなことを喚いていたと家内から翌朝聞くことになる。大トラ状態である。「もう寝れば」と家内がいうと僕は「僕は寝ない、いまだかってお酒を飲んで寝たためしはない、今日は徹夜だ」と言い、すぐさまぐっすりと寝てしまったそうだ。それでも読みかけの本を3ページばかり読んだ形跡があるのだが内容はもちろん覚えていない。僕の死に際もこのように往生際が悪くなるのだろうか。
そのとき読んでいたのが森村泰昌氏の「超芸術鑑賞術/お金をめぐる芸術の話」である。
次の絵を見ていただきたい。これはゴヤが1800-1801年に書いた「カルロス4世の家族」である。
この絵に興味を持った森村氏は井上靖氏のエッセイからエピソードを引用している。次のような内容だ。
中心から少し右手にいるのがカルロス4世、中心にいるのが妃のマリア・ルイーサである。カルロス4世が即位したのが1788であったことから即位後12年目の家族の肖像画ということになる。この絵をゴヤに発注するにあたりカルロス国王はスペイン・ブルボン王朝の権威と栄光を後代に残していく必要があると感じたからに違いない。
しかし制作の要請を受けたゴア。本来カルロス国王を中心にすえるべきところ若干右側に配置されていることに見ていて違和感を感じる。むしろマリア・ルイーサが中心的存在として書かれている。
これは実際の権力が国王ではなく妻のマリア・ルイーサにあったと聞くと納得がいく。この件に関してすべての国民が知っていたという。そのため話はややこしくなる。マリアの承諾がなければ国政からすべての意思決定は進まなかったという。
さらにカルロス国王だけが知らない事実を描いてもらおうとマリアは考えた。マリアは不倫をしていて、その相手は実質的に政治を行っていた宰相のゴドイという男であったという。マリアが手を繋ぎ肩を抱いているのが、娘と息子なのだがこの父親はカルロスではなくゴドイだといわれている。もちろんそのことをカルロスは知らない。ゴドイとマリアが実際に国を動かす権力者であること、さらにこの国を将来治めていくのはこの子供たちであることを絵の中心にすえることで意味しようとした。
カルロス国王とマリアとの間の空間が異様が空いているようには感じないだろうか。ここにはゴドイが立っていることを暗示しているという。
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妃とカルロス四世との間には、幼い王子が一人立つているだけで、その背後はあいている。画面の他の部分は、どこも登場人物たちが重なりあい、多少ひしめあっている感じだが、ここの部分だけあいている。“ここはこの幼い者たちの父親ゴドイが立つ場所です。近寄つてはいけません” ・・・妃は心の中で、そんなことを夫の力ルロス四世に言っているかのようである。しかし、そういうことを言っているのは、実は妃ではなく、ゴヤであったかもしれない
「超芸術鑑賞術/お金をめぐる芸術の話」森村泰昌著
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森村泰昌氏はまた美術家でもあり、僕は今年彼の展覧会を東京都写真美術館で見たことがある。
居酒屋にて
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年11月12日
横尾忠則ポスター展 THE BEST 450(YOKOO)
中森です。
今週の日曜日にかけて、北陸信越薬剤師会の学術大会が富山県で開催された。ホテルをチェックアウトする際に、駐車場はどうされましたかと聞かれた。「ホテルの駐車場は満車だったので、ホテルを出たところにある立体駐車場に停めました」と言うと、ホテルのフロントで割り引くことができるので駐車券を出してくださいと言う。しかし駐車券はいつもの癖で車の中に置いてきた。仕方がないので、駐車場まで取りに行くことにした。傘もささないで小雨が降る途中、何人かの人と出会ったので挨拶をする。おそらくもう帰るのかと思われたということはないだろうが、奇妙な行動と映ったのに違いない。
家族の都合があったので土曜の夜遅くホテルにチェックインした。シングルのベッドがあるだけという殺風景な部屋を見て、これだったら家で本を読んでいて、朝車で来たほうがよかったと後悔する。そんな狭い部屋の中で本を1時か2時ころまでだろうか読んでいた。そこそこ面白い本だったのだが気がつくと眠ってしまっていた。翌朝目覚ましの音で目覚めたのだが、スヌーズでもう一度鳴るだろうと思い一旦止める。5分後もう一度止める。無意識で何度か繰り返していたようだが、なかなか次の音がしない、そのうち再び眠ってしまったようで時計を見ると8時42分ではないか。朝食を諦め、急いで身づくろいをする。9時少し前にチェックアウトしたのだが、総合受付に行く時、郵送されてきてあった首から提げる入場票を忘れてきていることに気がつく。
このときも諦めて、当日の金額を払おうと思い受付まで行くと、副会長のNさんがいらっしゃった。事情を話すと自分のを持っていけばいい。といわれ、フォルダーの中から入場票を出してくれた。それは悪いと何度も固辞するのだが「いいから」といわれる。
結局参加リストに僕の名前があるのを確認して再発行してくれることとなった。受付の皆さんにご迷惑をかけてしまい反省する。
会場で薬剤師国家試験の実務に関する問題集と参考書を買おうと思ったのだが、書籍販売コーナーは今回はなかった。会場は多くの人たちで溢れていた。ポスターセッション会場でポスターを見ていたら右足がなんとなく引っ張られるような不思議な感じがする。脳梗塞でも起こったのではないだろうかと不安に思う。しばらくすると急にまた右足の動きが悪くなる。よくよく見るとズボンの裾の纏り縫いの部分が解けていて、解けた糸を誰かが踏むと僕の右足が引っ張られているのだと分かった。そおっと糸を手繰り寄せ糸を切ろうとするのだがその際にもぼろぼろと糸が解けてきた。何とか糸を切りそれをポケットに仕舞い込み何気ない顔をして再びポスターを眺める。
口頭発表会場に行く。実務実習に関する考察の発表や、震災で活動した報告などを聞き、石川県薬剤師会の若手ホープの山崎先生の発表を聞く。コンパクトにまとめられ、委員会の活動内容の本質と有効性が語られるすばらしい内容であった。
発表が終わったとき、そういえば富山県立近代美術館では今日何をやっているのだろうと気になったため、携帯で調べてみることにする。「あっ」と衝撃が走った。横尾忠則ポスター展である。初期の作品から時代を追って変遷していくポスターを精選しほぼ全貌である450点が展示されているという。
そのとき、今日僕は学術大会を聴くとともにこれを見るために富山県に来たのだと理解する。会場をあとにすると心はすでに横尾忠則で満たされていた。なぜなら僕の精神を形作るコアな部分は横尾忠則氏で作られているからである。
学生時代彼が書いた本「インドへ」を読んで強烈なインパクトを受け、その年の夏休みにインドに行ったこと。彼が観客を前にしてただひたすら絵を描く公開ドローイングを一日中見ていたこと。画家宣言をしてリサ・ライオンをモデルにして絵を書いていたころ。滝の絵、三叉路の絵。彼の生まれ故郷である兵庫県西脇市にある横尾忠則美術館まで一人で車で行ったこと。彼が書いた多くの本の大半を読んでいるとともに、朝日新聞の紙上で書評を横尾氏が書いたものまでしばし読んでいること。
横尾忠則氏の企画展が開催されていることを知ったときの僕の驚愕振りは想像していただけるであろうか。
会場の中心部には彼が高校生ころに制作した作品を始めとして展示されていた。それを取り囲むようにして作品が時代を追って展示されており、馴染み深い作品から変遷していく作風の変化を感じる。多くのポスターが展示されている中そのうちの一枚のポスターを実際に若かったころに僕は持っていた。それを見て懐かしいと思う。
僕がインドに行ったころ制作されたポスターで精神世界を曼荼羅のように表現している一角まで来ると頭の天頂からオーラが立ち上るような気がした。これらの作品群と僕の精神が同調して会話を交わしているのだ。暖かな波動に包まれ心が洗われているようだ。
会場は21世紀美術館のように観客で溢れていることはなく数名がポツリポツリといる程度。作品と自分の世界を作ることができるのでこれがまたいい。売店では彼の書籍と絵葉書、ポスター、が売られていたのでその中から本を二冊買うことにする。それを持って会計まで行こうとした時、横尾氏が制作したDVDがあることに目が留まる。そのとき、これを買うのも今回の一つの目的だったことに気がつく。運命はすべて決められているのだ。
ビデオの内容はここでは書かない。そんなにまでして手に入れたものの内容を易々と書けるものではないからである。これはあなたの運命が決めることなのだ。
やばい、横尾氏にすっかり染まってしまっている。
横尾氏制作のDVDより
木曜日に行った、Mさんのライブにて。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年11月05日
アルド・チッコリーニ
中森です。
アメリカの SONY Music が制作したクラシック音楽のBox setが先日アマゾンから届いた。25枚組みで4,500円ほどというお買い得品である。古くなったアルバムの寄せ集めかと思いきやそうではなく名盤ぞろいである。グールドの「ゴールドベルク変奏曲」やヨー・ヨー・マの「バッハ無伴奏チェロ組曲」など所有しているものも含まれていた。
2000年代の最近の録音のものもある中で1950年代のモノラル録音のアルバムも何枚か混ざっている。1953年Bruno Walter 指揮のブラームスの1番と3番。重厚な音質と美しい曲の解釈に引き込まれていく。また Jascha Heifetz(Violin)が弾くチャイコフスキーのバイオリン協奏曲。最近のコンサートでは女性のヴァイオリニストが定番のようになっているのだが、男性のヴァイオリンもなかなか聞き応えがある。この時の録音は1957年。ハーモニクスは使わないものの初めて聴くカデンツァに感動する。それぞれのアルバムからは1950年代の懐かしい音がする。マイルスでいえば「バグズグルーブ」から「スティーミン」や「リラクシン」などプレスティッジの頃の音である。
その後60年代に入ると現代の録音と比較しても遜色が無いばかりか、リマスタリングされているのもあるのだろうが、現代では出せない味付けを感じる。Arthur Rubinsteinのショパンのピアノワルツ集は1963年の録音。このアルバムからは名匠の趣を聞き取ることができる。またMontserrat Cabelle'というソプラノ歌手が歌うベルリーニのアリア。書斎で聞いていると心の底に沈殿している滓が洗われるようなそんな優雅なひと時を与えてくれる。
そんな過去の巨匠たちの名演を聞いていると、実際に巨匠の演奏を聞いてみたくなるものである。3日前までは行けるかどうかわからなかったのでチケットは購入していなかったのであるが、前日に購入した。アルド・チッコリーニのモーツアルトである。
巨匠とはいえすでに齢(よわい).は80歳をはるかに超えた86歳。ホロヴィツツが晩年に日本公演したときの出来は惨憺たるものだったことから、期待はしないほうが良いだろうと腹をくくることにした。モーツアルトのピアノ協奏曲20番この曲は内田光子の十八番である。これまでも何度かテレビで彼女が弾く繊細なガラス細工のようなピアノをラトルの指揮などで見たことがある。
オーケストラがスタンバイする中、指揮者のトーマス・カルブに続いてチッコリーニが登場する。小柄な白人のどこにでもいるような老人、巨匠の雰囲気などはまったく感じられない。しばらくオーケストラの演奏が続いた後チッコリーニが軽くピアノの鍵盤を両手でその感触を確かめるかのように触ったあと弾き始めた。ピアノは鍵盤を押すことでハンマーが弦を叩き音がする。誰が押しても同じ音がするのだろう。しかし最初の一音を聞いた特「あっすごーい、これが巨匠の音なんだ」というくらいに打ちのめされてしまった。どうしたらこのような美しい音が出るのだろうか。
有機的にピアノとオーケストラが時間が経つにつれまろやかに融合していく。
休憩に入る。観客は遠くから来ているのだろうか、普段のOEKの定期コンサートよりも、振る舞いにすきが無く目つきが鋭い人が多い。ロビーのCD販売所には黒山の人だかり。ここまで購入者がいるのも珍しい。みんな手にCDをぶら下げている。第二部はチッコリーニのソロピアノである。モーツアルトピアノソナタ第11番と13番。チッコリーニの本領発揮である。
予定のプログラムがすべて終ると絶賛の拍手がホールに鳴り響いた。シューベルトとドビュッシー、とクラナドスのスペイン舞曲第5番と三回もアンコールを重ねても拍手は鳴り止まない。これほどまでにも最高峰の演奏を聴く機会を得られたことの幸運をコンサートホールの拍手は表していた。バルコニー席にいたので気兼ねなく立ち上がっていたのだが1階のフロアーの人たちは勇気がいるようでなかなか立ち上がれないでいる。最後の最後になって最前列の一人が立ち上がった。その瞬間全員が号令がかかったように立ち上がった。場内全員のスタンディングオベーション。3階の人も立っている。日本でのクラシックのコンサートでは極めて珍しい光景である。
今後今日のようなピアノ演奏を越えるコンサートに出会えるだろうかと思う。その日会場に集った人たちはそれぞれの人生の中で至福の瞬間を共有したのだ。演奏が終わるたび丁寧に三方向にお辞儀をしてチッコリーニは帰っていった。
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鱗の無い海産物を食べてはいけないとユダヤ教の経典に書かれていることは知っていた。そのためタコやイカを食べられないなんてなんてかわいそうなと思っていたし、それだけではなく海老も蟹も駄目だというからに、かってロシアのカザール人の王様が「今日からわしらはユダヤ教に改宗するからね。」と言い出したようなことは絶対に日本では起こらないだろう。
ところがユダヤ教だけではなくイスラムの人たちにとってもウロコの無い食べ物は不浄の生き物として食べてはいけないことになっているらしい。キャビアはチョウザメから取れる。イスラム原理主義が強まっていく中、イランではやっぱりこれも駄目かと思いがっかりしていたところ新解釈が示されたという。
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しかしぺルシヤの昔からイラン人が愛してきたキヤビアが喰えなくなった。
なぜならイスラムは鱗のない魚を不浄としている。カスピ海で獲れる蝶鮫にはその鱗がなかった。
食い物の恨みは怖い。怨嵯の声は地に満ち、ホメイ二師の恐怖政治に亀裂が入りそうな勢いになった。
一九八五年、ホメイ二師は無名の学者を称賛する声明を出した。学者は蝶鮫の腹鰭(はらびれ)が鱗だったことを発見したという。
世界の学界では通じない説だが、これを機にスーパーに解禁されたキヤビアが並んだ。イスラム原理主義が見せた初めての譲歩だった。
その十年後、アトランタ五輪のエアライフル競技にイランからリダ・ファリマンが出場した。彼女が注目されたのは彼女が独身だったからだ。
イランでは女の国外渡航は夫同伴が要件だった。つまり独身女は国外に出られなかった。イラン人女性はそれを怒り、その時期、キヤビアのとき以上の社会不安を醸成していた。
イラン政府は譲歩し、リダの出場を認めた。ラフサンジヤ二大統領は「チヤドルを脱いで競技してよい」とも伝えた。女へのこれ以上ない譲歩だった。
これ以降、テヘランでは口紅を塗って街を歩いてももう連行され、鞭打たれることはなくなった。
「サンデルよ「正義」を教えよう」高山正行著
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小池真理子が直木賞を受賞したときの受賞作「恋」を読んだ。倒錯した恋愛が繰り広げられる中、本筋とはまったく関係が無いが次のような美しい文章が書かれていた。
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世界は常に、ローズサロンの外側にあるわけだが、或る美しい夏の晩に、登場人物の一人がふとサロンの窓から星空を眺め、逆のことを考えるシーンがある。彼はひょっとすると自分たちこそが世界であり、自分たちを取り巻いているこの満天の星空のほうが世界の外側にあるのではないか・・・・・とそんなことを夢想する。
私はそのシーンが好きで、何度も何度も飽きずにその部分だけを読み返した。小説の中で男は、ヒンズー教シヴァ神の妃を思わせる神秘的な唖の娘を抱きながらそう考え、窓の外の空を眺めて涙するのだ。彼の涙が唖の娘の腕を濡らす。すると、それまで眠っていたように静かだった娘がむっくりと起き上がり、男の膝にまたがって彼の首に両腕を回す。
「恋」小池真理子著
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BOOK OFFで500円で買ったバリかタイかインドで書かれた幸運の象徴である象の絵。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年10月29日
Sukhumvit.Soi2
中森です。
トルコは、日本と同じように南のアラビアプレートと北のユーラシアプレートがぶつかる境界の上にあるとともに真下にはアナトリア断層を持っているため地震が頻発する。そのトルコで巨大地震が発生したかと思うと、今度はタイのバンコクに洪水が差し迫っているという。元々水位差が少ない土地柄なので、初めてその報道に触れたときはたいした事はないんじゃないかと思っていた。
若かりしころ金沢に帰ってくる前、バックパッカーとして旅していたときに、タイのドンムアン空港から市内までの幹線道路が冠水していたのにもかかわらず、タクシーの運転手は日常のように水の中を進んでいったのを覚えていたからである。今朝の新聞には日本人が多く居住しているスクムビット地区も冠水しそうだと書かれている。スクムビットという言葉を懐かしく思い出す。スクムビット・ソワイ2と何度もタクシーの運転手に言ったことがあったからだ。
世界中のバックパッカーが集まってくるカオサン通りの宿を早々と抜け出して、マレーシアホテル周辺の安宿へと移動した。そこでは一泊が300円から350円くらいだっただろうか。それはただ部屋という空間であり、簡単なベッドがあるというだけの宿、もちろんシャワーやトイレは共同であった。雨が降るとシャワー室の天井から雨が降り注いできた。シャワーも雨も同じようなものだと、熱帯が渦巻く熱気の中面白く思ったものである。
その後僕はその場所を離れ、とあるきっかけでスクムビット・ソワイ2の奥まったところにあるホテルへと移動する。ホテルとはいってもかろうじてその体裁がある程度で、タクシーの運転手は誰も知らないようなホテルである。
そのホテルのベランダで、バンコクの本屋さんで買ってきた三島由紀夫の「暁の寺―豊饒の海・第三巻」を読んでいた。この暁の寺とはバンコクにあるワットアルンのことであり、小説の舞台はバンコクとなっている。驟雨が降りそそぐ中、これからの将来僕はどうなっていくのだろうかなどと不安の中、悲観的に将来を考えたものである。そして時々そこから程近いソワイ・カーボーイという飲み屋街に出かけたものであった。
Soi(ソワイ)とは小路の事を指す。スクムビット通りにある二本目の小路を入ったところにあるホテル。調べてみるといまだにそのホテルは存在していた。
そうだ「アトランタ・ホテル」だ。
今は古風なホテルに生まれ変わっているようだが、シャワー室は共同であったものの居心地がよいホテルであったことを思い出す。
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先週から今週にかけてコンサートを何度か聞きに行った。まず10月17日スタニスラフ・ブーニンがモーツアルトのピアノ協奏曲23番、上原彩子がベートーベンのピアノ協奏曲第五番を弾いた。サロン化した県立音楽堂の会場では何人かの知り合いに挨拶をする。
22日にはイッセイ尾形氏の一人芝居を赤羽ホールに見に行く。「イッセー尾形のこれからの生活2011 in 金沢」会場で演出家森田雄三氏の本を買う。冒頭の言葉に心を見透かされたように感じる。「人生の秘訣は「いつ」、「どんなこと」で挫折を知るか」
なぜなら僕は未だに挫折の連続だからだ。かっての挫折、そしていろいろなことで悩み苦しむ現在の生活、それもまた悲しいものである。それがあるから青春時代が続いているのだとサミュエル・ウルマンは言うのだろうか。そのあとにある言葉も妙に納得する。「「退屈な孤独」が人生の大半であるのを身体で覚えていく。」しかし何よりも僕はそれを楽しんでいるのかもしれないとも思う。
このような記述もある。
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とくに、せっぱ詰まって言いたいことがあるようなときは、その高ぶりを言葉にしないことが肝心だ。相手は言葉よりも先に、「身体から発するメッセージ」を感じ取っている。「煮詰まっている」時は、相手に警戒心を起こさせてしまい、言葉は届かない。
「間の取れる人、間抜けな人」森田雄三著
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翌、23日の日曜日はジャズのライブハウスに行く。不思議なきっかけで知り合ったジャズボーカルのMさんから「今度ライブハウスでステージを組むのでぜひともいらしてください」とメールをいただいたのである。
スタンダードの「On Green Dolphin Street」や「Misty」を歌ったあと、ジャズピアニストのバリーハリスに会ったとき、ビリーホリディの「Lady In Satin」を聞くようにといわれ早速聞いてみたという。その中から一曲を歌いますというので何を選曲したのだろうと思ったら「For Heaven's Sake」であった。
あとで彼女がテーブルまで来たとき「For Heaven's Sake」を選ぶなんて渋いですね。僕だったら「But Beautiful」か「It's Easy to Remember」かなという。それにしても光るものを持った心に染みるボーカルである。
僕の隣に座っていた二人はピアニストとベーシストだそうで、ジャズの話で盛り上がる。3人ともちょうど同じような時代の音楽を聴いてきたことがわかる。先日、CDの聞き比べ会があったという。そこに集まったひとたちは何枚かのCDを持ち寄り聞き比べた。その日のテーマはピアノトリオ。彼は古いレッドガーランドのCDと上原ひろみのデビューCDを持って行ったそうだ。そして言った「もちろん誰もビル・エバンスなんかはもって来ませんでしたけどね」
そこで聞いてみた。「実際ビル・エバンスはどんな位置づけですか」すると「そうですね、7割から8割りですね」という。つまりあとの2-3割の領域でピアニストの評価は変動するが、コアの部分はゆるぎないということである。
ステージが終わりみんな帰ろうとしていたとき、一人で来て聞いていた赤い服を着た女性が僕たちのテーブルにやってきて、先ほどのピアニストに挨拶をして立ち去った。そのあとに「彼女のジャズピアノの腕は県下で3本に入るんじゃないかな」と彼は言った。
翌々日の火曜日は特に予定は何もなかったところ午後4時過ぎになり携帯に電話が入った。「小曽根真の券が2枚あるんだけれど行きますか」との内容。「いくいく」と言うと、只で貰う上に気兼ねな事(金沢弁?)に届けてもらうことになった。なんと普段は絶対買わないS席のチケットであった。場所は本田の森ホール。このホールに足を運ぶのは久しぶりと思うものの、それほど古くは感じないところに黒川紀章の設計の秀逸さがあるのだろうと思う。
小曽根真はビッグバンドの編成を率いて登場した。ブールスやオリジナルの曲で構成していく。途中メンバーの中からテナーサックス奏者を一人選び、二人でデュエット演奏を行う。曲はガーシュインのスタンダードナンバー「Someone to Watch Over Me」僕もいつかこの曲を歌ってみたいものである。音程が最悪なので、まあ無理だろうが。。。
2ndステージはガーシュインのラブソディー・イン・ブルーをビッグバンド用に40分を超える長尺の曲にアレンジをして演奏する。終わっても拍手が鳴り止まない。次の曲を演奏する。そのうちホーンセクションのメンバーがステージを降りてきて会場内を練り歩きだした。熱狂が会場を包み込む。曲が終わったとき、全員が立ち上がりスタンディングオベーション。日本では上原ひろみかベネズエラの若き天才指揮者グスタボ・ドゥ・ダメルぐらいしか起こらない最大の賛辞である。
なるほどこのようなタイミングで世の中は回っているのだと、偶然聞くことになったコンサートを理解する。
案外僕は孤独ではないのかも知れない。
イッセイ尾形氏の一人芝居の会場「赤羽ホール」
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年10月15日
Inner Voices - 内なる声
中森です。
先週のブログに貼り付けたスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式でのスピーチ。ここで彼は最後に印象的な言葉を残して締めくくった。それが「Stay Hungry Stay Foolish」である。これは彼が語った言葉として多くの人たちに印象を残すことになったわけだが、このスピーチが息子の高校の英語の教科書に載っているという。早速見てみることにした。
教科書にはスティーブ・ジョブズがたどってきた人生と卒業式でのスピーチが書かれていた。起業するということ、挑戦者であり続けるということ、アップルを解雇された後途方にくれたこと、そして死について。彼は17歳のとき次のような一節を読んだ。「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずひとかどの人物になれる」。それ以来33年間毎朝鏡を見て自問しているらしい。「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」。
命がもたらした最大のものは死であるといったのは、ジャズ・ピアニストのモンクだっただろうか。不思議と僕は死に対して恐れを抱いていない。死にたいとは思わないが生きることがすべてであるとも思わない。なぜなのだろうか。いろいろな書物にだまされているのだろうか。ひょっとすると転生を繰り返してきた記憶があるのだろうか。
だからきっとスティーブ・ジョブズのようにはどう転んでもなれはしないのだろう。
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先週の日曜日金沢の中心地、片町は歩行者天国で賑わった。片町に住む親戚を尋ねたあと歩行者天国の道路に出ると、オーディションらしきものを仮設舞台で開催していた。メジャーを夢見る女の子たち。大人っぽくセクシーに着飾っているものの大概は小学生5-6年生のようだ。ダンスをし自分をアピールする。ある女の子は、舞台で音楽に合わせ生け花を生けた。よくわからない展開である。傑出した才能は見当たらない。しかし、場を盛り上げるためかスカウトの札がぽつぽつと上がり交渉権を獲得していく。きっと本人たちも見ている多くの人たちも、スカウトと称してやってきた人たちもイベントをただ楽しんでいるだけなのだ。そのほうが純粋に楽しめる。
そのあとに21世紀美術館に行くことにする。「Silent echoes」展に出展していたツェ・スーメイ TSE Su-Meiの「エコー」。この作品は以前にもどこかで見たことがある。そして「あっこれ知っている」と思った。
赤いドレスを着た女性が山間の草地に座り時折チェロを奏でる。イギリス人ピアニストの母と中国人バイオリニストの父の間に生まれ、自身もチェロ奏者でもあるスーメイは、音楽や音、東西文化やアイデンティティをテーマとした作品をつくっている。
http://www.flickr.com/photos/webdice/3198881632/
現代美術の空間に息づく波動を感じるにはもう少し観客が少ないほうが良いと思うのだが、世界的に見ても現代美術で多くの観客を集める金沢21世紀美術館なのだから仕方がないとあきらめる。
次に「Inner Voices ー 内なる声」展に行く。
この展覧会についてパンフレットにはこう書かれている。
「世界の中に自分の居場所を見つけていく過程で作り上げられるアイデンティティを、人々はどのように引き受けていくのでしょうか。多様な表現を以て時代に向き合う現代美術の作家の中で、自己への縛りをはねのけて自分にとって可能な道を探し続けようという意欲は、女性の作家たちに強く見受けられます。なぜなら、既存の価値観や古い現実のパラダイムを脱し、もうひとつの現実を自ら作り出すことは、権威や通念から自由であろうとすることー自己決定の自由の獲得が、女性にとっては重要なことだからです。」
まあ、そういうことなのだろう。
メリッサ・ラモス Melissa Ramos 1982年フィリピン生まれ、ニュー・サウスウエールズ州在住。
人生をはかないものとしてとらえ、記憶を頼りに人生を振り返る旅を映像と音で表す。
海馬を破壊され過去の記憶を頼りに、瞬間の記憶の断片をつなぎ合わせていく「メメント」やリドリースコットの映画「ブレード・ランナー」に出てくる埋め込まれた記憶を必死にすがろうとする人工的に作られた人造人間レプリカントを思い出す。
そして
記憶とは生きていく中で必要なものなのだろうか。
記憶に縛られることなく自由に生きたいと思うのだが、それは許されないものなのだろか。
と、思ったのである。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年10月08日
Stay Hungry、Stay Foolish
中森です。
10月5日、アップル社を創設しさまざまなカリスマが伝えられているスティーブ・ジョブズ氏が亡くなった56歳だったそうだ。
僕の書斎のパソコンはiMACだしiPodも歴代のものを3台持っている。1998年に発売されたiMACのボンダイブルー色を所有していたときはいろいろなMAC特有のソフトでカスタマイズしてすっかりMACに嵌っていたときもある。しかしMACフリークではない。ただMAC独特の文化に触れる程度であった。
ところが今回の訃報には打ちのめされてしまった。
たまたま、昨日は日本薬剤師会の委員会への出席のため東京に出てきていた。
僕は銀座のアップルストアーに行くことにした。
スティーブ・ジョブズ語録
○ 何が起こるかを、びたりと当てることはできない、しかしどこへ向かっているかを感じることはできる。
○ 何をほしいかなんて、それを見せられるまでわからない。
○ 次にどんな夢を描けるか、それがいつも重要だ。
○ IBMはパソコンを知性の道具ではなく、データ処理の機械として売っている。
○ Ipodよりも高いスニーカーがある。
○ あなたと僕は未来をつくるんです。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年10月01日
プラハの春
中森です。
スマートフォンでは次のようなアートっぽい写真をいとも簡単に撮ることができる。古くはマン・レイやブラッサイなどのような写真を自分で作ることができるのだ。4つ切り程度のフレームにマットを入れ壁に飾るとそれらしく見せることができるだろう。この東京タワーなどは絵画的な写真表現つまりピクトリアリスムとして現代の東京の雰囲気が伝わってくるのではないだろうか。
このように簡単に写真が撮れることで、人それぞれの持つ感性や美意識により日常の世の中からアートを楽しむことができる。
今年の6月ごろだっただろうか、日本薬剤師会の委員会の出席の際、僅かな時間を利用して、東京都写真美術館で「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」写真展を見たのを思い出した。
チェコスロヴァキアの自由化・民主化運動により「人間の顔をした社会主義」つまり自由な社会をチェコスロバキアの市民は実現することに成功した。そのときプラハは抑圧された社会主義から解放された自由な空気を謳歌していた。これを「プラハの春」と呼んでいる。
しかしそれを阻止しようと首都プラハには、ソ連軍がワルシャワ条約機構加盟の5ヵ国(ソ連、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリア)の軍隊60万人以上を動員して首都プラハに侵攻し全土を再び掌握した。
軍侵攻で「プラハの春」は終焉を迎える。市民たちは入城してきた戦車や軍隊に丸腰で抵抗を試みた。そのときのドキュメント写真をジョセフ・クーデルカは記録し続けた。自由を放すものかと必死になっている市民の表情、中年の女性が天を仰ぎ嘆く姿。自分の未来を失った瞬間を目撃した時の若い女性の顔。日常生活を踏みにじられた市民たちの怒りや戦い、犠牲になった人たちの遺族の叫び。これら写真の持つ強烈な威力に圧倒された。
http://www.syabi.com/contents/exhibition/index-1353.html
http://syabi.com/upload/3/1353/2011_05.pdf
その日僕は本屋に行きプラハの春を舞台にしたミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」を購入し、帰路ずっと読み続けていた。
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今週は世界的ピアニストであるウラジミール・アシュケナージが彼の息子と共にピアノを弾くデュエットのコンサートを聴いてきた。ウラジミール・アシュケナージは先ごろまでNHK交響楽団の主席指揮者を勤めていたので、日本での馴染みは深い。
僕はといえば学生時代ジャズ一辺倒であった極貧の生活の中、何をきっかけだったかは忘れてしまったがアシュケナージのピアノのCDを買ったのが彼との出会いであった。
その時買ったのは、モーツアルトのピアノ協奏曲第23番。あまりにも純粋で天使の囁きのようなピアノの音に魅了された。僕のクラシックピアニストのアイドルはグールドでもなくバレンボイムでもなくプレヴィンでもなくアシュケナージが最初であった。その後彼が弾くラフマニノフやショパンのCDを買い求め聞いた。
そんな僕の永遠の神格的存在になっているアシュケナージが金沢にやってくるのだ。1-2年前に辻井伸行氏のピアノ協奏曲を指揮するため金沢にやって来たが、気がついたときには券はすでに完売となっていた。
今回は事前に券を購入することができた。ラフマニノフの組曲第一番作品5「幻想的絵画」ムソルグスキーの「禿山の一夜」そしてラヴェルの「マ・メール・ロワ」。これはマザーグースを意味するのだが、幻想的で美しい大好きな曲である。
二人が登場する。お父さんの楽譜はなんら変わらない印刷されたもの。一方息子さんの楽譜はiPadに表示された楽譜を使用していた。それを譜めくりの男性が指でちょんと触りページを送っていく。これは面白い、今回は譜めくり役がついていたが無線で電波を飛ばし別室でめくっていけば良いのではないだろうかと。さらにオーケストラの譜面も自動で譜面をおくることができる。ピアノの上には3台は置けるだろう。
演奏は親子だけに暖かな演奏。ファミリーコンサートのような波動が場内を満たす。お父さんも息子と一緒に世界を回れるなんて幸せだと思う。
そんな優しさに溢れた演奏会であった。
https://yyk1.ka-ruku.com/ishikawa-t/index.jsp?type=N&id=B110929-00&scr=detail
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年09月24日
シネマ×パイプオルガン
中森です。
今朝は真っ青な青空が広がる秋晴れである。太陽の光線も力強くあたりは原色に溢れているかのようだ。朝からとても気持ちがいい。気温も20度前後と心地よい風を感じる。先週の日曜日は真夏を思わせるかのような暑い1日。その日金沢では金沢JAZZ Street が開催された。全国から大学のサークルなどのアマチュアを中心としたBIG BANDやCONBOが金沢の街中に作られたステージで演奏するのである。
今年は街中を聞いて歩くことはなかったが夜の赤羽ホールで行われるSpecial Concertを聞きに行くことにした。まず始めに仙台にある高校のビッグバンドが登場する。「Birdland」や「SING SING SING」 そして「In The Mood」といった定番曲を演奏する。そのあと坂本九の「上を向いて歩こう」を演奏したときは感じるものがあった。学友の中で帰らぬ人となった友人もいたと、指導の教員から話があった。
二部に片倉真由子トリオが登場する。数曲ピアノトリオで演奏したあとテナーサックスの川嶋哲郎が登場した。吹き込んだサックスからは太くて音量のある良い音がする。「In a sentimental Mood」や「Like Someone In love」を歌心あるアドリブで聞かせる。このあと登場する韓国の歌姫ウン・サンが楽しみになる。まるでジャズボーカリストのローズマリー・クルーニーが歌うバックで演奏するスコット・ハミルトンを思わせるかのようなテナーサックスだ。
ウン・サンが登場した。堂々とした存在感に日本人と同じ東洋人なのだが彼女からは大陸を感じると、そのとき思ったものである。「Song for you」や「Rute 66」「Love for sale」などで会場を盛り上げていった。王道を行くスタンダード・ジャズである。リーダーは片倉真由子のはずなのだが、ウン・サンが舞台を取り仕切る。そんな彼女からは暖かい人柄を感じる。アンコールが終わり席を立つと、知人の顔を見つけたので挨拶する。
翌日の月曜日にも再び赤羽ホールに出向いた。今回の金沢JAZZ Streetの目玉である大西順子ピアノトリオを聞くためである。彼女のCDはデビューからのものを含め大概持っている。「ビィレッジ・ヴァンガードの大西順子」はすばらしかった。彼女のアドリブにぐいぐい引き込まれ音楽の世界に塩漬けにされてしまいそうになるくらいだ。音楽を聴いて心地よくなってくると眠たくなり、気がつくと深い眠りに落ち、CDの終了とともに目が覚めることは多いのだが、このアルバムを聞いていると次第に脳が覚醒していくのだ。
彼女はしばらく活動をしていなかった時期があったものの5-6年前から再開をしているらしい。昨年発売した『BAROQUE/バロック』は持っていない。
19時ごろに会場に着くとホールはすでに多くの観客でごった返していて係員が順番をつくよう促していた。昨日とは大違いである。さすが、ネームバリューは違うものだと列に並ぶ。
オリジナルを数曲演奏したあとスタンダードの「ダーン・ザ・ドリーム」を演奏する。ところがなんだか退屈である。会場を眺めるのだが彼女は不思議と会場からのエネルギーを拒絶していることがわかる。つまり観客と彼女との精神性の交流がないのである。そのため彼女の音楽に乗れない演奏になっていると感じた。
ビートルズのブライアン・エプスタインのような才能あるプロデューサーが彼女につけばさらによい演奏が聴けるのにと思うのだが残念である。なんだか消化不良の感じを残しながらコンサートは終わった。
ここで金沢JAZZ Streetは終了したのであるが、翌日は県立音楽堂に行った。3日続けてコンサートホールに行ったことになる。
1925年の映画「オペラ座の怪人」を上映するのだ。ただしこの映画は無声映画である。無声映画といえば学生時代「イントレランス」「アンダルシアの犬」「戦艦ポチョムキン」などを場末の映画館で見たことを思い出すが、無声映画のため今回は映画の場面にあわせてピーター・クラシンスキーというオルガニストが音楽堂のパイプオルガンを演奏するというのである。
http://www.ongakudo.jp/info/concert/organ.html
パリのオペラ座には怪人が住み着いていた。怪人はオペラ座の地下に広がる広大な水路の先にある秘密の部屋に住んでいた。怪人の顔は見るにおぞましい醜悪な人相をしていた。そのため顔面にマスクを装着して素顔が見えないようにしていた。そんな彼はオぺラ座の歌姫であるクリスティーヌに恋心を抱く。怪人はクリスティーヌを地下の秘密の部屋に誘拐する。クリスティーヌの恋人が彼女を奪還するためにオペラ座の地下深く潜入する。
1925年といえば昭和元年であろうか、そんなときに舞台設定からキャラクター設定までスペクタクル映画の醍醐味がすでに完成されていた。「オペラ座の怪人」は無声映画であるため退屈さを即興で作り出されるパイプオルガンの音楽が、盛り上げていく。
映画が発明された当初、まだ無声映画だったころ映画館にオルガンが設置され生演奏で無声映画に伴奏をつけていったそうだ。そういう意味では貴重な時間を楽しむことができることになる。ピーター・クラシンスキーの演奏もとてもすばらしかった。この試みは横浜みなとみらいホールそして宮崎県立芸術劇場アイザックスターンホールでも行われるらしい。また見に行きたいものである。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2011年09月17日
雨
中森です。
今朝は朝から雨が降っている。今日から金沢の街中はジャズで埋め尽くすイベントが行われるのだが雨の中での開催ということになりそうだ。雨とジャズといえば学生時代田園コロシアムで行われたジャズのフェスティバル、ライブアンダーザスカイを思い出す。チック・コリアが雨の中演奏を敢行した。会場に詰め掛けた満員の観衆はその中でずぶ濡れになりながら、演奏を聴いた。その中の一人が僕であった。そのときからチック・コリアは雨男といわれるようになったらしい。
スワヒリ語で「花」「殺す」という意味がある女性歌手のUA。彼女も雨女と言われているらしい。そんな彼女は「水の女」という映画で主演をしている。
http://www.barks.jp/watch/?id=52020309
トミー・フラナガンが金沢のデパートの屋上で演奏したときも雨が降っていた。ジャズのマーケットはきわめて小さいため、ジャズジャイアンツといわれる伝説のジャズピアニストでさえもデパートの屋上で演奏してくれといえば拒否できない悲しさがある。小気味よいリズム感と繊細なアドリブは、かってコルトレーンと吹き込んだジャイアント・ステップスでは後半部アドリブを放棄した雪辱を払拭するかのようなすばらしいスーパージャズトリオの演奏として多くのゴールドディスクを獲得した。
そんなジャズピアニストの巨人トミー・フラナガンがデパートの屋上の舞台に登場したときも雨が降っていた。ピアノの前の椅子につくと彼は空を見上げた、そして一言悲しそうにこうつぶやいた。「It's Rain」その時彼は「雨に歌えば」をいきなり引き出した。ベースとドラムはそのことを知らされていなかったようで、瞬間戸惑った様子を見せた。コードを探りながらピアノにベースが付け出してドラムがそれに続いた。
その瞬間のインプロバイズされた音楽の楽しさを感じたものである。「雨に歌えば」と言えばはマルコム・マクドウエルがスタンリー・キューブリックの映画「時計仕掛けのオレンジ」で踊るシーンがある。これも台本にはなかったらしいのだが、撮影の合間に雨が降ってきたときマルコム・マクドウエルが歌いながら踊りだしたため急遽このシーンを入れることになったといわれている。傘を振り捨て電柱を片手にくるくると回りながら・・・。雨が降っている中に自分がいることを感じると、みなこのメロディーを思い出すのだろう。
ボズ・スキャッグスの We are All Alone も雨が降りしたと歌は始まる。きっと生きていく時には雨は必要なのかもしれない。
今からの季節ひと雨ごとに秋が近づいてくる。そして雨があがったら秋の青い空を眺めるのだ。その先に未来が見えることを信じて。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年09月10日
徳久和夫先生の思い出
中森です。
昨日の朝一番に携帯にかかってきた電話で急逝の知らせを受ける。しばし言葉を失う。昨日1日中仕事が手につかない。僕の精神的な動揺は徳久先生のお顔を拝見することで、やっと収束に向かった。そのお顔はいまだ息をされていられるかのようであった。
徳久先生から電話があったのはちょうど10年前の2001年のことであった。富山で開催される北陸信越薬剤師学術大会に、当時僕が行っていたインターネットでの医薬品の情報提供についてまとめ発表してみませんか。といわれた。なにぶんそのような経験がなかったので戸惑ったものであったが了承した。
当時はまだパワーポイントも一般的ではなく使用はできなかった。そのため、OHPのスライドをパソコンから印刷して提出した。緊張する中初めての発表を行った。途中口の中が乾燥してのどがからからになってきた。僕は緊張すると喉が渇くということを知った。そのときから演壇には必ずペットボトルを持参する癖がついた。何とか無事に発表を終え席に戻ろうとした時、目の前に徳久先生が座っていらっしゃった。お辞儀をすると満面に笑みをたたえられて右手でOKサインを作られた。こんなのではまだまだ駄目だなと思っていたものの、その指のサインで救われたような気がするとともに徳久先生の大洋のような広い心に接したように思ったものである。北陸信越薬剤師学術大会には、そのときを含め5年間全県での発表を徳久先生から強制され無事最後の長野県までたどり着くことができた。徳久先生は僕の番になるころには必ず聞きに来てくれた。
医療薬学会で座長をやったときには僕の座長の前ふりの話の内容に流れを作ることができましたねと評価をいただいた。しかし徳久先生がお考えになられる水準には達していないことを僕自身が一番よく知っていた。
今年の8月の日本薬剤師会の代議員会で僕が初めて北陸信越薬剤師会から質問することになった。要旨原稿が北陸信越薬剤師会でも了承されたので、逡巡したものの徳久先生にそれを送付することにした。8月上旬のことである。しばらくしても全く音沙汰が無かったので、ご覧になられなかったのか、それともコメントを口にするまでも無い内容と思われたのかと思っていた。
8月もお盆が過ぎ、街が日常を取り戻したころ徳久先生から電話があった。まず送付した文についてのお礼を言われた後「これは北陸信越薬剤師会で了承されたものですか」と聞かれたのでそうである旨伝えると、「ああそれは良かった」といわれた。発表の順番を聞かれたので3番目ですという。「3番目であってもその前の二人の先生がご質問される内容を頭に入れておいて、かぶることが無いよう気をつけなさい」といわれる。そして「質問することで日本薬剤師会について深く考えることになるから良い経験ですね。」といわれた。
それから2-3日経ったころであっただろうか、徳久先生から再び電話があった。20年前に叙勲を受けたときに徳久先生が書かれたものをまとめた文章を見つけたのだけれどそれを読んだことはありますかと言う。読んだことは無い旨を伝えると「それではお送りしますので読んでみてください」といわれた。郵送されてくるものと思っていたのだが、その日のうちにその文集は届けられた。それは徳久先生の足跡をしるしたものであった。
今ここには石川県薬剤師会の封筒がある。表には「中森先生へ」と書かれ裏には徳久和夫と書かれたゴム印が押され、2011年8月23日と僕が鉛筆で書いている。
お礼の手紙にはこう書いた。
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・・・さらに「医薬分業30年の歩み」におきましては、心の底から深くその意味を理解できたように思いました。そこからは諸先輩方が何もない中から新たなる仕組みを作り出す血の滲むような努力と崇高な理念が現在の状態を作り出されたものと分かりました。
それはこれまで私が読んだどんな文章よりも感動を呼び起こす内容に溢れていました。現在に至る道筋が理論立てて書かれていて、なおも現在とは全く変わらない不動の精神がすでに確立していたことに感銘を覚えました。
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以下はその内容である。
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その当時、薬剤師会としては、備蕃一覧表のよ うなものをつくりまして、薬局に、最少陳度こういうお薬を備蓄しましょうということを指導したんです。私は開業した直後でしたから、それを額面どおり全部、百何十品目でしたかそろえまして、薬局薬剤師のプライ ドみたいなものもあって, 調剤室にそれを並べておったんです。 ところが、そんなことで処方箋が発行されるはずもないんですれれども、現実に昭和31年度は1人もそういう患者さんが来られなかったわけです。
(略)
やはり、医薬品情報と、患者情報と、そういうものが統合されたところに新しい調剤にかかわる仕事が出てまいりますね。ここらがやはり一番大きなところでしょう。患者さんとの対話がなければ、交流がなければ仕事がだんだんできなくなってきますね。お年寄りなど眼科にかかり内科にかかるという複数の医療機関での受診がありますよね。同じ薬局で処方箋を受け付けると、薬歴によって重複投薬があればチェックできますし、前回処方とのつながりでもってその処方の内容をある程度判断していくという作業が出てきますね。薬歴があるからはじめてそういうチェックができるんです。
薬歴があって、より調剤の有効性と安全性とが確保されると思います。いま試行錯誤の中でそんな仕事をやっているところです。薬歴管理学というものもまだないですね。薬学教育と関連すると思うんですけれども、ある程度基礎的な臨床に関する知識が必要ですね。そうでないとプロとしての対応ができないですよ。いま薬科大学を出てきたばかりの薬剤師さんに、受付に出て患者さんとのやりとりの中から、患者さんの状況、例えばアレルギーの問題とか、いま使っている薬、既往症、妊娠しているかどうか、お酒を飲むか、たばこを吸うかというような生活習慣、そんなようなことを聞き出して、それで処方箋と見比べて判断をしろと言っても、これはちょっと難しいですね。ここらがクリアーできて初めて薬剤師として調剤できるんじゃないですか。
(略)
前向きに取り組めば、必ず医薬分業というものは日本の国で定着するであろうし、しかも薬剤師の仕事として実りあるものになることも、確信をもって言えると思うんです。そういう勇気をもう一ぺん持ってほしいと思うんです。
「医薬分業30年の歩み」 日本薬学会 昭和61年9月10日
+-+-+-+-+-+-+-+
「20数年前の文章ですが、今読んでみても十分納得がいく内容ですのでぜひともお読みになってください。」
徳久先生のその言葉と文章の内容が頭に響いている中、代議員会で質問を行った。
9月4日の日曜日在宅介護をテーマにした研修会が行われた。会場に入ると右手前方に徳久先生が座られているのを見つけた。講義が終了して会場がざわめき、多くの先生がたと挨拶や雑談を行っているときに、徳久先生が歩いてこられるのが分かった。先生のところまで行き、届けれていただいた文集についてお礼を言った。すると徳久先生は届けた文集のことよりも代議員会での質問の方を気にされていたようで、「質問はうまくいきましたか」と真っ先にいわれた。
感謝の気持ちを先生にお伝えした。
それが5日前の日のことである。
徳久先生がお好きだった島倉千代子の歌詞が届けられた文集の巻末に書かれていた。
こがらしの道 つらくても
ひとりじゃないぞ 負けないぞ
あなたよ 明日の幸福は
結ぶこの手に 花ひらく
呼ぼうよ 呼ぼうよ 太陽を
涙の谷間に 太陽を
涙の谷間に 太陽を
今日はこんなとこです。
では
中森慶滋
2011年09月03日
日本薬剤師会代議員会
中森です。
昨日の東京は何度か行った今年の夏の中で最も暑かった。クールビズの普及のせいか上着を着ない人がほとんどの中、夏とはいえ移動の際にはそれほど暑さを感じずにおくことができた。昨日は一変し、久しぶりの猛暑が戻ってきていた。夏らしいのはいいのだがそのような移動に慣れていないせいかしだいに億劫になる。
時間があったので渋谷のタワーレコードに行く、輸入物を探すのだが国内版ばかりが多くて残念だ。円高はあまり期待できないのだ。アマゾンの米国サイトでの通信販売のほうが安く買えるのではないかと思う。環境音楽を試し聞きし、インドのシタール、バリのガムランのCDを手にはするがそれらを買うことはなかった。
外に出たとき、ウォークマンに入っていたインド音楽を聴くことにする。湿度の高い東京はまるでインドにいるかのような環境、その中を歩くには強靭な音楽が必要だ。さらに渋谷の町に溢れる若者たちが持つ未来を手にしたかのような創造のパワーに対抗しなければならない。インド音楽でなければ目いっぱいノイズに溢れたアンビエントもいいだろう。現代美術でのインスタレーション、近未来の映画、マトリックスやブレードランナーの世界が渋谷に出現する。
そんな不思議な世界の中で自分とはいったい何なのだろうと考える。金沢の小都市では絶対感じられない感覚だ。宿舎によく使う新橋のホテル。この周辺を歩いてもオジサンおばさんたちで溢れていてエネルギーを注入することはできない。今の自分には新橋のほうが合っているのだろうと思うが、そこではホントの意味での自分を見つけられない。しかし灼熱の東京を歩くと「あなたっていったい何なの」と言われているような気がする。僕って何なのだろう、僕はいったいどこにいるのだろうとそんな浮遊感のなかで考えるのだ。
先週の土曜日は隅田川の花火大会が開催された。日本薬剤師会代議員会の会場である東陽町にあるホテルと花火会場とは程近いと聞いていたため、その日の夜に宿舎のホテルまで帰るのに道路は混雑しないだろうかと気をもんだものだった。
朝早くにホテルを出る。その日は8時までに来ることと議事運営委員に召集がかかっていたのだ。8時はさすがに早い。当初8時集合の案内が来たあとで9時集合と変更されたものの直前に再び8時集合と連絡が入った。さらにその後FAXが届くほどの念の入れようだ。そのため何かしら不穏な動きを感じたものであった。
8時少し前に議事運営委員会の会議室に入る。会議室にはいったものの、その場の雰囲気からは切迫感を感じない。そこから動議の動きが無いことを感じとる。会議が始まると議長の小野先生が動議が出される気配が無いことを確認する。何についての動議なのか、これは周知のこととしているのか誰もその内容については一言も話さない。
そのため他に話し合うこともなくあっさりと8時10分過ぎには解散となる。本会議は10時からである。仕方がないので、ホテルの外の広場に出てみることにする。すがすがしい朝の空気をいっぱいに吸い込みながら秋の気配を感じる。ハンバーガー屋さんに入りコーラーを手に外の椅子に座る。その日は僕が代表質問することになっていたので大きく印刷した原稿を確認する。見れば見るほどいろんなことが連想されるため、収集が付かないと思い途中で止めることにした。
会議は予定通り10時より粛々と進行していった。午後からは代表質問である。僕の質問は三番目という好位置であったため、順番が決まったとき多少ラッキーと思ったものである。終わりのほうだと質問がし尽くされてしまっているし、トップだと会場の雰囲気に気圧されてしまう危惧もある。無事僕の質問が終わり、席に戻り他の人たちの質問を聞く。1日目の質問は関連質問が許されていないため、質問者が納得すればそれで終わりということになる。そのため白熱することは比較的少ない。
質問がすべて終了し功労者の表彰も終わり懇親会が行われた。いろんな人が声をかけてきてくれた。特に被災地石巻でのミーティングでお話をいただいた丹野先生。先生からは「津波のときはてんでんこ」の内容が印象的であった。丹野先生からボランティアのお礼を言われる。自ら被災した先生のご苦労を思うと返す言葉もないがこうしてさまざまな背景を持った人たちが我々薬剤師の将来を作るために議論をし執行部の明晰な指導のもと歴史が作られていくのだと感じる。
二次会で愛知のS先生から旅行の話をされる。今年のFIPの年会がインドのハイデラバードで開催されることからそのような話になった。S先生はインドにももちろん行かれたことがあるらしく、さらにイスラエル、ヨルダン、エジプト、トルコと第三諸国にも詳しい。ベトナムにいたってはご主人のベトナム赴任に同行して各都市をことごとく訪問されたそうだ。
翌日の一般質問は関連質問が許されているため、次から次と質問が繰り出されてくる。実務的なこと、将来のこと、我々薬剤師のこと、地方薬剤師会のあり方など多くの問題が討議される。その中でもっとも中心となったのは日本薬剤師会の定款の改定に関するものである。それぞれの薬剤師会は与えられた裁量により独自に運営されているため、さまざまな点での不整合を調整していかなければならない。方針を打ち出す日本薬剤師会の執行部も大変なことだと思う。
お昼休み、議事運営委員会が昼食を摂りながら開催された。依然動議は出されるかどうかに関心は収斂されている。議長は「採決に入ったら動議は受けつけられないんですね。」と確認する。そして「でも、直前に出されることもあるからな」という。動議を出すとしたらこのタイミングだ。その瞬間に緊張が走ることになる。
14時20分「これにて質問を打ち切ります」と議長の声が会場に響いた。「次だ」と思う。ほんの数秒の間が止め処もなく長く感じる。議長はさも当たり前のように「それでは採決に入ります」という。そのときのポーカーフェイスの顔が今だ目に焼きついている。そして今後、動議が出されたとしても、採決に入ったからには議長の権限で受け付けないという強い意志がそこにはあった。
議会は予定よりも早く終了した。タクシーに乗り浜松町に着く。途中、永代橋を渡ろうとしたとき、前夜ここから隅田川の花火が遠くに見えたことを思い出す。羽田空港は最後の夏休みの日曜日とあってか多くの人で溢れていた。喫茶店に入りコーヒーを飲む。窓の外には飛行機が飛び立っていくのが見える。大きい飛行機も小さな飛行機も空に道が書いてあるかのように同じ空間を辿り飛び立っていった。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2011年08月20日
まじめな顔をした猫
中森です。
昨日は石川県立武道館に行く用事があったため初めて訪れてきた。玄関で靴を脱ぎスリッパに履き替える。外と中を武道では区別する古き日本の伝統がここではいまだに存在していることを懐かしく思う。トイレに入ろうとすると、トイレにはトイレ用のスリッパがありそれに履き替えなくてはならない。節電で照明が落とされた廊下を歩く。館内全体に凛とした空気が漂っているのを感じる。
会議の合間にロビーに出てみると弓道場が見えることに気がつく。近くまで行ってみることにする。女子高生らしき若い女性たちと年配の女性。ほとんどが女性である。その中に一人だけ男性が混じっていた。
弓を番える動作が美しい。道の世界の美しさに感動する。所作それぞれに品がある。矢が的に的中する。すると、ガッツポーズをとるわけでもなく何事もなかったように矢を放った女性は次の矢を放つ動作に取り掛かる。流れるような所作を眺めていた。その流れを通してみているうちに、矢を射る人の精神性が浮き上がってくるのが見える。まるで能を見ているようだ。ちょっとしたしぐさですべてがわかってしまう道の世界。あまりの美しさに涙が出てきそうになった。
今日は猫の話題である。先日「まじめな顔をした猫」をWebで見つけた。あごが外れた猫や、猫語を話し続ける猫などの面白い動画は時々Youtubeで見かける。この「まじめな顔をした猫」をずっと見ていると、何かしら哲学的なものを感じる。
三毛猫にオスはいないと言うことはご存知であろうか。遺伝子を解説した本には時々見かけることがあるのだがその仕組みはこうだ。
性染色体で性別が決まる猫の性染色体は人間と同じでメスにはX染色体が2本あり「XX」、オスはX染色体とY染色体が1本ずつあり「XY」となっている。白い毛色は性染色体に関係なくオスでもメスでも持つことができる。しかし黒や茶になる有色の遺伝子はX染色体に一つずつ存在する。そのためメスではXが二つあるので、黒黒、黒茶、茶茶の毛色の猫が生まれることになる。この黒茶の二色に白が加われば三毛猫となる。性染色体が「XY」のオスでは、Xが1つのため黒か茶のどちらか1色しか持たない。そのため三毛となることはない。
今読んでいる本
「マイルス・デューイ・デイヴィスV世研究」
菊池成孔+大谷能生著
初版本発行日 8月20日 ・・・今日ではないか
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モダニズムという更新主義は二〇世紀のほとんどの芸術家につきまとう宿命のようなものとしてありましたが、その速度とヴァリエーションにおいて、マイルスは突出しています。アルバムごとにスタイルが変化したという意味ではビートルズも比肩しますが、いかんせんレヴォリューショナリー(革命家)である彼らの活動期間は短すぎる。このことの意味もおいおい述べていきますが、活動期間の長さと変化の質量が多く比例することは想像に難くないでしょう。二〇世紀美術界におけるパブロ・ピカソの例を思い出せばすぐにご理解いただけるものと思います。
「マイルス・デューイ・デイヴィスV世研究」
菊池成孔+大谷能生著
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来週は日本薬剤師会の代議員会に出席のためこのブログはお休みとなります。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋