2023年11月25日
Christmas Song
中森です。
携帯に表示される気温を見た今朝の金沢は4℃。すでに12月どころか真冬の気候に入っている。今週の木曜日は20度を超え初秋の気候であったのに。数日の間の気温の違いに地球のダイナミズムを感じる。
コーヒー店で相変わらず本を読んでいるのだが最近はすでにクリスマスソングが流れている。僕はナットキングコールが歌うThe Christmas Songというタイトルのクリスマスソングがお気に入りでジャズバーでリクエストしたものだ。そのうち僕がジャズライブハウスに行くと金沢では有名なボーカルの中本さんは気を効かせて歌ってくれた。
マライア・キャリーAll I Want For Christmas Is You はもちろんみなさんご存じの有名なクリスマスソングである。今やクリスマスソングのベストワンにランクされるぐらいの定番中の定番曲になっている。その曲がThe Christmas Song を抜いて僕のベスト・クリスマスソングになったのは今から4-5年前であっただろうか。コロナ感染前の頃である。
この曲の歌詞は「クリスマスにはプレゼントなんかではなく一つだけほしいものがあるわ。そんな私の願いをかなえたいの。クリスマスに私がほしいのはあなただけ!」という歌である。
僕はスターバックスコーヒーで本を読んでいた。この曲が流れきた。僕の前のテーブルには外国人の3組の男女が座っていた。イケてる外国人の白人系の人たちである。金沢には外国人は増えてきているがそれでもなかなかいないような感じの人たちだ。その人たちの耳にこの曲が入ったのか若干意識しているかのように体をリズムに合わせ軽く左右に動かしている。曲が”All I want for Christmas is you”まで来たとき、全員がこの歌詞を歌い出した。そしてis you のところでお互い指をさしあったのだ。それはそれは素敵な瞬間であった。外国のクリスマスの楽しみ方を垣間見たような気がした。
その時から僕のお気に入りのクリスマスソングはマライア・キャリーのAll I want for Christmas is youになったのである。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年11月18日
ティラノサウルスレースin宝達志水町
中森です。
今朝の車に表示された外気温は5℃、急に初冬に入ったようだ。二週間前はまだ初秋の陽気が漂っていたのに。
11月4日土曜日、中森家の家族は群馬県と京都府から集まり能登の柴垣海岸に隣接しているグランピングの宿泊所で自然を楽しんでいた。夜僕は受付のあるロビーラウンジでJBLのスピーカーからジャズが流れる中で本を2時間ほど読んでいた。夕食は施設が設置したバーベキューに舌鼓を打った。バーベキューには様々な海産物が用意されていて目の前に広がる海の波の音を聞きながら自然のダイナミズムと波動に包まれていた。
波の音を聞きながら眠っていた僕は、早朝6時に携帯にセットしたアラームで目が覚めた。ランニングウエアに着替え3.5km離れている能登の最大の神社である気多大社まで走りに行くことにした。
羽咋市を中心とするこのエリアにはUFO伝説がある。気多大社の横に正覚院というお寺がありここに所蔵されている「気多古縁起」という巻物の中に、神力自在に飛行物体が記されているのだ。そのこともあるのか羽咋市はUFOで町おこしを行いUFOを展示した宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」を作ってしまったほどの熱の入れようだ。横尾忠則氏のエッセイに羽咋UFOの中心的人物である高野誠鮮さんについて書かれていて、そこには彼の宇宙観を本物と評価していた。
キャンプ場から気多大社まで緩やかな登りが続く、それから一気に下りの坂道がやって来る。一週間前に走った金沢マラソンの疲れはまったくない。早朝のジョギングを楽しみ、社にお参りをして帰路についた。それからテントわきのバーベキュー場で朝食をとった。海を眺めての朝の時間はとても清々しい。まるで東南アジアのリゾート地に来たような気分に包まれているようだ。
それから近くにある宝達志水町で開催されるティラノサウルスレースに家族で参加した。会場につくと運動会のような大会の楽しい雰囲気ができており晴天の中でイベントの楽しさを盛り上げていた。参加者はみなエアーで膨らませたティラノサウルスの着ぐるみを着て70mを競い合うのだ。ランニングシューズを履いて走ろうかと思ったのだが、それだと滑りやすい気がした。その時履いていたトレッキングシューズの方が芝生をつかみやすいと思いトレッキングシューズで走ることにする。若干マジになっている自分に気がつく。金沢マラソンの出発前はみなリラックスしているもののそれぞれが思い描いたフルマラソンの過酷さに真摯に向き合っている緊張感があったものだが、ここにはイベントを楽しもうというハイキングのような穏やかな雰囲気が覆っていた。
開会式の後みんなでティラノサウルスを着てラジオ体操を行う。皆それぞれがコミカルでとても楽しい。日差しが強く暖かかったので木陰に場所をとり中森家はそこからレースを眺めることにする。
レースが始まった。息子の妻と息子たちがことごとく予選敗退したのを見た後に僕の組が回ってきた。
僕のティラノサウルスはグレーである。コースどりをしやすいカーブにほど近い位置の出走場所についたので「おおっいいな」と思う。しかし着ぐるみの中を見るとみな壮観たる体格の若者たち、彼らより齢をはるかに越えた僕が短期決戦のこの中にいることは場違いなような気がした。マラソンのようにゆるゆるとマイペースで走るのとは違うので若干弱気になる。「よ―い」との掛け声がかかり「スタート」で8匹のティラノサウルスが走り出した。走り出して10mほどで僕は転倒する。起き上がるとほかのティラノサウルスたちは僕をすでに抜かして前を走っている。それからは全力疾走はあきらめマラソンペースでゴールした。
グランピングに行きティラノサウルスに出た二日間は我々家族をリセットする恢復の時間を与えてくれた。それは自然に包まれた中で精神を鎮静化する必要な時間だったのかもしれない。
戦いあう中森家のティラノサウルスたち
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年11月04日
僕を破壊した美しい海側環状道路のコース
中森です。
先日の10月29日金沢マラソンに出場した。期待はしていなかったものの相変わらずの惨敗。記録は5時間46分であった。それでも今度こそ最後まで走り切りたいとの強い希望を持っていたので、マラソンの当選が決まった時からジムで、普段より長く走ることにした。とはいえランニングマシンでのこと。これがどれだけ実践につながるかは不明なものの一つの目安として一か月に走る距離を稼ごうと思ったのである。
マラソンには奇跡は絶対起きないとの言葉を片町のバーのマスターに聞いた時から気合が入ったかのように走りだした。彼は金沢マラソンを3時間半で走る神レベルのランナー、今回も出場しこれまでの自分の記録を超えようとしているので僕は先生と呼んでいる。先生とは偶然スポーツ店で出会いナイキのペガサス40というシューズを選んでもらった。
普段は月4回程度で一回15kmを走っているので大体50-60km/月である。7月から走る距離を長くすることにした。
7月93.32km 7回の合計
8月96.04km 6回の合計
9月163.4km 11回の合計
10月172.34km 8回の合計(3週間)
10月に最長で走ったのは27.63km(3時間)。この時は30kmを越え走りきりたかったのだがどうしてもできなかった。そのため肉体的というより精神的な壁を感じていた。10月19日は15.53kmでマシンを降り絶不調に多少落ち込み、気を取り直して直前1週間前で30km越えを狙ったのだが24.11kmで限界が来てしまった。だがこれは精神的な壁であり足はまだ走れる状態だと思っていた。
10月27日金沢マラソンの参加受け付けに行った。石川県立音楽堂の地下にある交流ホールに設置されたランナー受付場の段取りはとても素晴らしく、流れに乗るだけであっけなく終わってしまった。身分の確認と引換券とプログラムの交換ゼッケンの交付そしてTシャツを渡された。今回のTシャツはシンプルなデザインとなっている。受付をしているランナーたちはとても楽しそうで出場する喜びと過酷なマラソンに出るための準備をしてきた自信にあふれているのがわかる。家に帰りゼッケンをもらった黄色いTシャツに取り付ける。気持ちは高ぶらず平静だ、後半の苦しみに耐えられないかもしれないという不安もあるからなのだろう。しかし気持ちを切り替えマラソンを楽しんでこようかなどと思うのだが、些か心もとない。
前日は19時ごろ布団に入った。眠れないかもしれないと思ったのだが、しばらくするとあっさり眠りに入っていた。雨の音で目が覚める。トイレに行き時計を見ると3時半過ぎ。もう8時間も眠れていると安心する。
しばらく布団の中でいろいろ考える。フルマラソンはこれで5回目なので足が痙攣した時のつらさを何度も経験している。そのことを思い出していた。4時50分に目覚ましのアラームが鳴った。1階に降りていきテレビをつける。ワールドカップラグビーの決勝戦がLIVEで放送していた。世界最高レベルのラグビーは、すでにトライをとる戦術からゴール中心の戦術に変わっていた。拮抗しているどちらのチームも最大限の力を出し合っていることがよくわかる試合だ。その中でスクラムハーフのデクラーク選手(南アフリカ)の活躍が目に引いた。
やがて夜が明けてきた。ウエアに着替えたときなぜか悲壮感が漂う、本来マラソン大会とは最後まで走りきる人のためにあるものなのだが市民マラソンと枠を広げたことで僕のようなレベルのランナーも参加できるようになった。そのため競技としての大会からイベントとしての性格が強くなり42.195kmを走ることに意味があるレベルの人も参加させてもらえるのだ。このことに素直に感謝しようと思う。しかし僕は大会に敬意を払うため172.3kmを3週間で走った。そんな複雑な感情が僕を取り巻きそれに翻弄されていた。
家内に片町のスクランブル交差点まで送ってもらう。車を降りて周りを見渡すと多くのランナーたちが配布された大きなナイロンリュックを担いで目的地である四高記念公園まで歩いていた。会場の入口でゼッケンを見せてくださいと言われ前部のチャックを開いたとき、ランナーとして参加するうれしさを感じる。雨はすっかり上がり青空が顔をのぞかせている。トイレに行き薄手のヤッケを脱ぎトラックに荷物を預けた。
薬剤師の小林君が「先生も出るんですか」と声をかけてきた。トイレに行き自分のナンバーで指定された整列エリアに入っていった。開会式が始まったかと思うとその2分後にあっけなく号砲が鳴り第一ウエーブのランナーたちが走り出した。僕は第二ウエーブなので15分後だ。ゲスト出演の猫ひろしが「にゃー」と言い、小島よしおが「苦しくったって、そんなの関係ねー」と言っているのが聞こえる。
「第二ウエーブのスタート10秒前です」
極めて平静でいる自分に気がつく。ピストルの音が聞こえた。スタートだ。台の上に乗った金沢市長さんが手を振っているのが見える。市議会議員の宇夛君がいるのもわかる。彼も僕に手を振ってくれている。
左へ大きく曲がり石川門に差し掛かる。順調な出だしだ。金沢友禅大使の女性たちが着物を着て手を振ってくれている。時間は5分台を指していたのでスピードを緩め6分台まで落とした。尾張町の石黒薬局前に石黒さんがいたので「石黒さ・・・ん」と声をかける。鼓門まで北上し折り返し片町にいた親戚や家内に手を振って出発の意気込みを見せる。犀川大橋に「割烹たけし」の大将が手を振っている、僕も振り返すと気が付いてくれた。犀川大橋からしばらく上り坂が続く、前を見ないように足元だけを見ながら坂を感じないように走った。初めてのエイドで水を口に含み飲まないでですぐに吐き出した。それから高尾まで順調に走る。左折をしたところから急激な登り坂が待っている。野田墓地にいる母にお願いする「ちょっと背中を押して坂道を助けてくれる?」母親はしょうがないなという感じで僕を押し上げてくれた。「でも海側環状道路は大変だから手伝えないよ」と言われたような気がした。
最高地点まで走りあがったときトンネルが見えてきた。トンネルからは下り坂なのでとても楽だ、一気に二つのトンネルを走り抜ける。まだまだいけそうな気がする。172.34kmランで上半身が安定して体がつらくなくなっているのだ。そのまま賢坂辻から橋場町そして浅野川町を抜けハーフ地点を超える。
それからしばらく走ると急に体が重く感じるようになってきた。このままだと鉄道と高速道路の二つの立体交差を超えられないのではと思う。スピードがどんどん落ちていくのがわかる。太ももの付け根が痛く感じる、芍薬甘草湯を飲む。鉄道を横切る下りの立体交差の入り口で「中森先生」と沿道から声をかけられた。振り返ると石川県学校薬剤師会理事の石浦先生であった。
躰のつらさに耐えながら走り続けた。今年から設定された海側環状道路を走るコースに入った。客観的に見てランナーには過酷だが美しいコースだと思う。本線に入る登りの誘導路や交差点に降りる立体交差する下りのあまりのアップダウンに足が痙攣しだした。歩けなくなったので立ち止まり足をさするとふくらはぎ全体が痙攣する。ゼッケンを止める安全ピンを一つはずし足にさし続ける。すると針の刺激で痙攣がなんとか収まってきた。しかし足を動かそうとするとすぐに痙攣がやってくる。それでもゆるゆると動き出そうとする。何とかいけそうな気がしてきた。僕はゆっくりと歩き出した。
それから「僕の」マラソンが始まった。様々な思いが頭をめぐる。生きてきたこと、うれしかったこと、悲しかったこと。道路わきから応援の声が聞こえる。「もう少し頑張らなければ」と思う。早歩きが何とかできるようになる。しかし痙攣した足を引き摺さっての早歩きはとてもつらい。走ろうと思うのだがその瞬間足がつりだすのがわかる。徐々に速度を上げていく。これで4回めの金沢マラソンなのでコースの概略は頭の中に入っている。そのため精神的には自分の位置と体調と経過時間の感覚は分かっているつもりだ。そのため今の自分がいる状況を客観的に理解することができている。早く早くと自分に言い聞かせる。
終盤ゴール近くの犀川にかかる橋を登ろうとしたときに大粒の雨に降られる。とても気持ちがいい、地球から祝福されているような気がした、それは今日のこのマラソンだけではなく僕の人生への生きている証の賛歌として。
日常生活でこのような自分の体力の限界に自ら挑むことなんてなかなかないような気がする。それができることに感謝しようと思う。
ゴール直前に村山市長に挨拶し、ほくりくアイドル部の娘たちとハイタッチする。そしてゴール。途中、実力もないのに無謀なことをしている自分にあきれていた。もうこれで最後にしようと思ったのだ。そうだ何度思っただろうか。何度も何度もそう思ったのだ。そして僕はゴールだけをただひたすら純粋に目指していた。
しかしゴールしたとき若干の達成感と心地よい疲労感から僕の精神と肉体に与えてくれたこの地球の重力を感じ苦しみの本質を知った。あらゆるものは重力から逃れられない。ところがそんな僕を救済したのは超自然的な力であった。自我を消滅させ自分という存在を地球へと明け渡して隷属する、そのとき僕の魂は神から恩寵を受けた気がした。こんなことを感じたのは今回が初めてである。
そして来年当選したら出場し1分でも早くゴールを目指してみようと思ったのである。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2023年10月28日
川の流れのように
中森です。
明日は金沢マラソンだ。昨夜受付をしてきた。今は鬱状態(笑)。また歩き出すんだろうな。できるだけ頑張ろうと思うが、今年からは25km過ぎにコースが変わり海側環状道路の強烈なアップダウンが加わった。自分を信じてささやかな目標を超えるように頑張ろうと思う。なんでこんな過酷なものに出ようと思ったのだろう。不思議な人生の流れだ。その流れに逆らわないように生きていこうと思う。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
明日は金沢マラソンだ。昨夜受付をしてきた。今は鬱状態(笑)。また歩き出すんだろうな。できるだけ頑張ろうと思うが、今年からは25km過ぎにコースが変わり海側環状道路の強烈なアップダウンが加わった。自分を信じてささやかな目標を超えるように頑張ろうと思う。なんでこんな過酷なものに出ようと思ったのだろう。不思議な人生の流れだ。その流れに逆らわないように生きていこうと思う。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年10月21日
横尾忠則氏と死について
中森です。
文化功労者の発表が今朝の新聞に載っていた。
画家の横尾忠則氏が受賞したとある。僕に抽象芸術へと眼を開かせたのもインドに行こうと思ったのも、宇宙の仕組みについて理解したのもすべて横尾氏からであった。彼の故郷、兵庫県西脇市に行き建築家の磯崎新氏が設計した西脇市岡之山美術館に行ったことがある。この美術館は西脇市出身の美術家横尾忠則の作品展示と地域活動を主たる事業として昭和59年10月に開館した。外観はホームに停車している三両連結の列車をイメージして設計された。(参考:西脇市岡之山美術館ホームページhttp://www.nishiwaki-cs.or.jp/okanoyama-museum/)
この日は僕は三島由紀夫氏の「金閣寺」を読み大きなショックを受け感動したことで京都まで行き「金閣寺」を実際に見たそのあとでのことであった。
美術館を訪れた当時、女性ボディービルダーのリサ・ライオンをモデルに描いていたのを覚えている。それから横尾氏はY字路の絵を書き続け、滝の絵を描き続けた。また富山県立近代美術館での横尾忠則展や横尾氏のドキュメンタリー映画、マラソンの瀬古氏と横尾氏の対談などが僕の人生の中での思い出として思いだされる。つまり僕の心の中の多くの領域を横尾氏が占めているのである。また横尾氏は小説も書いていて生と死のあいだ、此岸と彼岸をただよう永遠の愛の物語「ぶるうらんど」で泉鏡花文学賞を受賞した。
横尾氏が観客の前で絵を描くという公開ドローイングを二回見たことがある。一回目は今から40年ほど前に西武池袋百貨店でのホールで。当時西武池袋店は芸術の中心的役割を発信していた。もう一度は金沢の商業施設の中で行われた。横尾氏の存在からは僕のエネルギーがどんどん吸い取られて行ってしまいほぼ一日見ていただけなのだが帰りにはすっかり力が出なくなりまる一日寝込んでしまった記憶がある。
それだけに今回の受賞はとてもうれしい。また共時性が働いたようで横尾氏の新書「死後を生きる生き方」横尾忠則著2023年10月23日第一刷発行。それと横尾氏と五木寛之氏が対談したものを収録した「死を語り生を思う」五木寛之著を今週の火曜日と水曜日に読んだばかりたったのだ。とても不思議な感じだ。
その中から印象に残った個所を抜き出してみようと思う。
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五木 私の場合、まだそこまで行かないのです(笑)。まだ入り口のところでうろうろしているけれど、少し見えてきたのは、死というものは決してものごとの終わりではなくて、やっぱりわれわれにとって未知の、すごく新しい体験への旅立ちというふうに考えたいということです。そうすると、どきどきしながら死を待てますからね。
横尾 むこうの世界から見れば、死は誕生でしょう。地上からぴょーんとあがってくるから誕生だし、逆に、向こうの世界から転生して地上に生を受けるのは、もしかしたら死かもしれないですよ。だから実体をどちらかにおくかで考えが割れますね。
「死を語り生を思う」五木寛之著
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あるとき、三島由紀夫(作家)さんが霊性について語られたことがあります。
「君は、礼儀礼節のない無礼な作品を描いている」と。「だけど、それはかまわない。芸術行為だから」。ただ、日常生活における、人や社会との付き合いの中での礼儀礼節だけはちゃんとわきまえなさい。三島さんはそういうことを言いたかったんです。
僕は、じゃあ、「その霊性を手に入れるためにはどうしたらいいんですか?」と訊いた。そうしたら、三島さんは「簡単だ。日常生活の中で、生き方の中で、礼節を重んじなさい。礼儀礼節を守りなさい。それでいい」と言いました。
三島さんは、経糸が創造だとすると、横糸が礼儀礼節だ、と。その「礼儀礼節と創造が合致した交点、そこに霊性が生まれる」と言うんです。
「死後を生きる生き方」横尾忠則著
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今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年10月14日
ガザ
中森です。
イスラエルとハマスの対立はやがて一週間を迎えイスラエルはガザ地区住民に退去勧告を出している。ハマスはこれを拒否、そのため今後多数のパレスチナ人の犠牲者が出る見込みだ。国連は人道支援に乗り出そうとしているがなかなか難しいのが現実だ。中国はイスラエルに近づこうとしていたと思われたが様子見状態でどっちつかずの対応だ。
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【エルサレム共同】イスラエル外務省は13日、中国がイスラエルに対するハマスの攻撃を非難していないとして「深い失望」を表明した。「テロ組織ハマスが罪のない市民に対して行った恐ろしい攻撃と凶悪な虐殺、拉致に対する明確な非難がない」と指摘。12日に中国側に伝えたという。
中国はハマスを非難せず「パレスチナとイスラエルの共通の友人だ」との立場を強調している。」
10月13日 神戸新聞
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トランプ元大統領はイスラエルを非難した。
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トランプ氏、イスラエル首相を非難 共和党で反発広がる
イスラエル・ハマス衝突
2023年10月13日 日本経済新聞
【ワシントン=中村亮】
米国のトランプ前大統領がイスラエルのネタニヤフ首相を非難し、共和党内で反発が広がっている。「戦争状態」にあるイスラエル支援で結束すべきだとの意見が相次ぎ、イスラエル政府高官も前大統領を批判した。
前大統領は11日、南部フロリダ州で演説し「ネタニヤフ氏が私たちを失望させたことを決して忘れない」と強調した。
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僕は1987年第一次インティファーダが起こるほんの少し前だがエジプトからガザに陸路入国した。バスはスエズ運河に架かる橋を越えた。列を衝いたタンカーやコンテナ船が悠然と運河を航行しているのを眺めた。放置された戦車が砂漠に残っているまだ中東戦争の名残がある中、バスはイスラエルを目指していた。ガザで入国手続きを行いスラエルに入った。国境で入国者はみなセキュリティチェックと手荷物の検査を時間をかけて行われ、国境を越えたときにはみなげっそりした顔になっていた。バスのガイドはエジプト人のわかりやすい英語から白人のネイティブの英語となり、読み取るのが難しい。社内の音楽はアラブ音楽からスザンヌ・ヴェガの「LUCA」がかかったのが印象的だ。
エルサレムは三大宗教の聖地である。イスラム教の聖地岩のドーム。このドームには次のような言い伝えがある。ムハンマドは大天使ジブリールに伴われエルサレムの神殿上の岩から天馬ブラークに乗って昇天し、神アッラーフの御前に至った。この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期にはすでにイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。(参考Wikipedia)
キリストもエルサレムの城郭の中から昇天した。キリストの十字架が立てられたというゴルゴダの丘は聖墳墓協会の入り口にある。そしてユダヤ人の聖地は嘆きの壁がある。
敬虔なユダヤ人が居住しているというメアシァリム地区を通り越して気がつくとパレスチナ人が住むアラブ地区に迷い混んでいた。一人の少年が僕にポストカードの束をみせて買わないかという。バックパッカーの荷物を少しでも増やしたくないのと、お金をなるべく節約していたのでお土産らしいものはエジプトのパピルス以外ほとんど買っていなかった。当然その時もいらないと言ったのだが少年はしつこかった。「どこから来た」と聞くので日本だというと「日本はいい国だね、トヨタやホンダを作っているから」といいやたら人懐っこい。
少年は買わないかと再びポストカードの束の写真を僕に見せた。イスラエルの名所旧跡の写真だ。しかし膨大な数で100枚以上あっただろうか。値段を聞くと買う意思があるとみなされるのでなかなか聞かないのだが根負けした僕はいくらだと聞いた。少年は1シェケルという。今は1シェケル37円くらいだそうだが、そのとき150円ぐらいだったと思う。これはとても安い。その時の感覚では10-20シェケルといわれてもおかしくない相場であった。もう一度聞いてみる少年は1シェケルで間違いないという。僕は買うことにした。ポストカードを眺めるとちょっと前の古い写真という印象、そこにはイスラエルの様々な観光地が写っていた。
タイのバンコクの安宿で僕はそのポストカードの束を手に取り再び眺めていた。その中に人が写っている写真が何枚かあった。その時多くの写真はすべてある視点からとられていることに気ついた。ユダヤ人が一人も写っていないのである。すべてパレスチナ人であり遺跡の解説もパレスチナ人に関するものであった。その時膨大な数の写真が1シェケルであったことの意味が分かった。僕はその時涙が頬を流れるのを感じた。
24時間以内に退避させよとのイスラエルの呼びかけにハマスは徹底的交戦の構えをとる。以前のアメリカように仲介に入る国家は見当たらない。中国は様子の中立の態度をとっている。振り上げたこぶしを収めることはできるのだろうか。さらにこれから世界はいったいどうなっていくのだろうか。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年10月07日
カタリン・カリコ氏
中森です。
今週のもっとも大きなニュースはカタリン・カリコ氏が生理学・医学賞を受賞したことだろう。事前の予想が的中した順当な受賞だ。
冷戦最中の1955年のハンガリー人民共和国ソルノク県ソルノク市で生まれた彼女は、ソルノクよりキシュウーイサーッラーシュ市で育った。父親は精肉業で、母親は事務員だったそうだ。
ハンガリーで研究していた彼女はハンガリーの経済の疲弊により30歳の時失業してしまった。職を探していた彼女はアメリカのテンプル大学で「博士研究員」枠としての受け入れが認められた。1985年にはポストドクター研究員として、招聘されることが決まった。その後ペンシルベニア大学に職を移したものの研究成果が上がらない彼女に、ペンシルベニア大学の上司は、退職か降格かと選択を迫った。彼らはカリコが「成果を出すことができず、社会的意義のある研究とも思えない」「教員に適しない」との理由で「研究室のリーダー職」から、mRNA研究を諦めることになる辞職か、降格と減給を受け入れた上に研究を続けるかの選択を迫られた。彼女は後者を選び、終身雇用資格の教職ポストから解職というテニュアトラックから降格させられ、大幅減給させられた。(参考:Wikipediaより)
「世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・かリコ」増田ユリヤ著にはハンス・セリエ博士から彼女に贈られた本があり、彼女はそれを人生の支えにしていると書かれている。セリエ氏は彼女について次のように書いている。
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成功は、時にその人の人格をゆがめてしまったり、悪い方向に導いたりしてしまうことがあります。ハンガリーの詩人の作品に「小川が海に流れるように・・・」という一節がありますが、その詩のように、彼女はどんなに成功してももともとの素直な人間のままでいられる。そういう人間に育ってくれた。高校時代の経験が、彼女の人生にいい意味で大きな影響を与えたということなんだと思います。どれだけ大成功してもその後も変わらず、素晴らしいモラルをもって生きているということ。それが重要なことなんです。
「世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・かリコ」増田ユリヤ著
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彼女の今回のワクチンの成功のポイントは次の点にある。
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2008年には、さらに研究を重ね、mRNAのウリジンを「シュードウリジン」という特定の化学修飾をつけたものに発展させた。このシュードウリジンを施したmRNAを使うと、炎症が抑えられるばかりか、タンパク質の設計図であるmRNAがとんどん細胞の中に入っていき、大量のタンパク質が作られることがわかったのです。
「世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・かリコ」増田ユリヤ著
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このシュードウリジンは食品メーカーであるヤマサ醤油が製造しているらしい。
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mRNA合成用原料のシュードウリジン
ヤマサ醤油の医薬・化成品事業部では、核酸系うま味調味料の製造開始を発端に、核酸化合物に特化して60年以上事業展開してきています。1970年代からは医薬品原薬の製造販売も開始しています。以前は研究用試薬として数多くの核酸化合物を合成し販売していましたが、その一つとしてシュードウリジンを1980年代から販売しております。
古くから製品として持っていたこともあり、今話題のmRNA(メッセンジャーRNA)の合成用素材として以前からご使用いただいております。体内に存在する通常のmRNAは配列をなしている4つの核酸化合物の一つがウリジンであるのに対して、治療薬やワクチンとして開発されているmRNAはウリジンのかわりに修飾核酸(シュードウリジンやその他の誘導体)が使われています。尚、シュードウリジンはRNAの一つであるtRNA(トランスファーRNA)などの構成要素としてもともと体内にも存在します。
ヤマサ醤油ホームページより
https://www.yamasa-biochem.com/business/20211012.html
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mRNAワクチンには面白い特性がある。薬は一般的に体表面積に比例して特に子供の場合体重に薬の量は依存している。しかしこのmRNAワクチンはそうではないという。
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このジカウイルスの研究で特筆すべき点は「サルにもネズミにも同僚のmRNAワクチンを使ったところ、より大きな動物に対して量を調節する必要がないことだった」とカリコ氏は説明している。つまり、われわれが新型コロナワクチン接種にあたって、体の小さな(体重も少ない)人と大きな人のワクチン量が同じとはおかしいのではないか、小さな人は量が多すぎて副反応が起きやすいのではないか、といった類の心配を否定するひとつの結果だということだ。
「世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・かリコ」増田ユリヤ著
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不遇な研究時代を過ごしたものの、世界的な結果を残したカリコ氏に喝采を送ろう。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年09月30日
Take Five
中森です。
来週新潟県で北陸信越学術大会が開催される。挨拶を振られるかもと思ったので朱鷺について調べていると五木寛之著の「朱鷺の墓」という小説があることを知り早速取り寄せた。すでに発売はしていないようで、古本をAmazonで買った。上下950ページなのだがそろそろ読み終わる。それが実に面白いのだ。金沢の芸子である染乃がロシアを舞台にした大河ドラマである。
「日露戦争下の城下町金沢を舞台に、美貌の芸妓・染乃とロシア貴族出身の青年将校イワーノフとの恋の行方を描いた作品。そこかしこに男女の性への執着を執拗に織り交ぜながらも、日本が軍事的にアジア大陸へ向かっていく20世紀初頭の時代にあって、一人の女が強靭な愛を貫く運命を壮大なスケールで描いている。『婦人画報』連載途中より話題となり、テレビドラマや演劇にもなった。」Wikipediaより
ここ二回にわたり土曜日に書いているブログはお休みとなった。先週は祝日という事でお休みをし、先々週は和歌山で開かれている日本薬剤師会学術大会に行ってきたため書けなかった。
和歌山には全国曜後の夜に入った。ホテルの受付やライブハウスでの会話で交わした和歌山の人たちからはとてもあたたかな波動を感じた。また都市としての在り方も金沢とは全く違うようで徳川家の質実な文化をそれはそれで良さとして受け行けている自分を面白く思ったのである。
翌朝6時ごろ起床しランニングウエアに着替え和歌山城まで周回6km走ってくることにした。道路が広くとってある和歌山市内の朝はとても清々しくほとんど車は走っていない。時々ランナーとすれ違うのだがみなさわやかな朝に走る喜びを振りまいているような気がした。和歌山城が見えてくる。とても美しい城である。前日の夜に和歌山のジャズライブハウスに立ち寄った。店主とカウンターにいたお客さんとジャズを肴にお酒を飲んでいた。ポール・デズモンドが流れてきた。その時なぜこんなオンリーワンの飛びぬけて優秀なアルトサックスがデイブ・ブルーベックと一緒にコンボを組んでいたのかという話になった。どう見ても音楽性やデイブ・ブルーベックのアドリブのセンスとポール・デズモンドのレベルとは格段に違っているのである。そのうちそれだからこそ長くやっていけたのかもしれないというところに落ち着いた。お店の名前は「Take Five」。それから和歌山城の話になった。「あのお城戦争で焼けてしまって今あるのはコンクリートのお城なんです。」
僕は和歌山城の写真を撮った。回矩木々の間から除くお城は品格と格式を備えたとても美しいお城だ。それから和歌山城をぐるりと回りこんだところに目を引く美しい現代建築があった。後で調べると和歌山県立近代美術館で会った。翌日開会式を終えたときにその美術館に行ってみた。空間と所蔵している池田満寿夫やピカソ、クレー、カンジンスキー、ルオーなどの近代美術のコレクションが混ざり合い有機的な美しさを放っていた。
広い道路を何度も横切るためそのたびに信号待ちしなくてはいけない。普段はランニングマシンで走っているので外を走るのは結構辛いことが実感として伝わってくる。金沢マラソンは大丈夫なのだろうかと不安になる。それでなくてもまともに走り切れないのであまり参考にはならないのかもしれない。周回6kmなのでホテルにはあっという間に戻って来た。フロントに部屋のカードキーをみせて宿泊者であることを提示した。
和歌山はホテルが少なく、今回の参加者はみな宿泊に苦労していたみたいである。僕はどこに泊るか逡巡していた時に運営側から会長枠を用意していることを訊き事なきを得たのであるが、地方都市での開催は実に大変であることを知る。しかし和歌山は地方都市としての温かさが伝わってきたそんな学術大会であった。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年09月09日
「絆」「勇気」「導く」そして Our Team

中森です。
明日ラグビージャパンはワールドカップの初戦チリ戦を迎える。日経新聞ではジャパンの状況を冷静で分析的に書いている。”日本「目標は優勝」心ひとつ”の記事では姫野和樹が取集に指名されたこと。SHの流れが副将となったことを上げ、この挑戦をエベレスト登山に例えている。
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高く険しい道のりを進む準備はしてきた。NZや、イングランド、フランスに敗れた昨秋のテストマッチは現状を知り、基礎を固める基礎を固める「ベースキャンプ」の位置づけ。
6月の合宿はW杯本番を意味する「デスゾーン」(標高8000メートルの酸素濃度が低い領域)で戦うため追い込みの期間だった。今夏の実践は1勝5敗だったが、強化を続けてきたフィットネスや接点の機微室には手ごたえがある。
日本経済新聞9月8日記事
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前回王者の南アフリカチームは実のところ日本にとってなじみの深いチームだという。今季日本のリーグに所属した選手は8人を超え前身のリーグ時代を含めるとさらに多くの選手が日本でのプレー経験を持つという。日本ラグビーの底上げを海外の最高峰のレベルの選手たちが担ってくれていたのだ。
ジャパンには新星CTBの長田智希やロックのアマト・ファカタバが加わったことで希望を感じるという。これまでの1勝5敗には手の内を隠し偽装ていたのではとの分析もある。本来の工夫されたプレーは抑えられていたとの分析だ。「キックの種類も制限していたのか、小さく上げるか横に転がすパターンは1試合に3-6本だけ。ジョセフ体制の日本では10本越も珍しくないのだが。」日本経済新聞 9月5日
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またFW3人のところ4人に増やす珍しい形をトニー・ブラウンコーチは攻撃のパターンを変えた。これまでキックとパスのバランスを試合によって変えてきたのだが、キックゲームの中心選手であるFB山中亮平選手をメンバーから外したのでパスによるボールキープが軸になると分析している。
翌日の記事ではいかに失点しないかというポイントをあげジョン・ミッチェルコーチの目指す守備について次のように書いている。
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目指すのは「ダブルヒット」というあまり聞かない形。1人目が下、2人目がボールの位置に入る普通の「ダブルタックル」ではなく、2人ともボールの位置に入るタックルを目指す。
(略)
日本はグラウンドの左右両端の15メートルずつを空け、パワーで破られやすい中央を13人で固める形をとる。手薄な両端を埋めるには「13人」の外側に立つ選手とキックに備えて後ろに控えるFBやWTBとの連動がカギだが、連携にはまだ課題がある。 日本経済新聞 9月6日
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連載三日目の記事では選手主導で未到の舞台へとさらなる躍進を期待している記事となっている。
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15年は選手が密集戦の練習方法を考え、南ア戦ではリーチ・マイケル主将(BL東京)がエディー・ジョーンズHCの指示を無視し、スクラムを選択。さよなら逆転トライをたぐり寄せた。 日本経済新聞9月7日
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ラグビーでは一人で成し遂げることは難しくチームワークが欠かせないとしたうえで次の三つの言葉が練習時用の目につくところに垂れ幕をかけていることを紹介しているそれは「絆」「勇気」「導く」である。
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「絆がないと戦えない。強敵と戦うにも勇気が必要。誰かに任せるのではなく、全員が密いていかないといけない。どういう組織を作るかという中で大事な3つの言葉」。坂手淳史はそう解説する。
前回の「ワンチーム」に代わる新たなスローガン「Our Team(私たちのチーム)」には、それぞれがより主体的に組織をつくり上げるという意味を込めた。 日本経済新聞 9月8日
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明日のジャパンはどんな戦いを見せてくれるのだろうか。
楽しみになってきた。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年09月02日
わがひのもとは〜
中森です。
これまで三島由紀夫氏が書いた本や彼のことを論じた本をもうすでに30冊ぐらい読んだだろうか。そのうち意外なことが浮かび上がってきた。天皇を崇拝していたものと思っていたのだが、実はそうではなくて石原氏と同じく天皇を否定していたと書いてある本もあった。恐れ多くてここでは書くことができないのだが極端な記述に不思議と納得してしまう自分もいた。
三島氏はボディービルやボクシングそして剣道、居合と男らしさを前面に出すといういわばパフォーマンスを晩年世に示し続けたのだがその裏側には貧弱な運動神経がそうされたようなのだ。
*-*-*-*-*-*
氏は私の目を十分意識して、大層誇らしげに例の大きな声をさらに張り上げ竹刀を振っているのだが、「面っ、面っ、面っ」と書けるその声と振り下ろす竹刀の動きがたちまちちぐはぐにずれてしまい、しまいには全く合わなくなってしまう。丁度子供が緊張したりすると歩く時の手と足が揃ってしまって、いわゆる南蛮歩きになるのによく似ていて滑稽だが当人は一生懸命だし笑うわけにはいかない。
「三島由紀夫の日蝕」 石原慎太郎著
*-*-*-*-*-*-*
石原氏はこの本の中で三島氏の「あま奇矯な死に方」を次のように分析している。これは僕も石原氏と同じようにそのような結論に至ったのだが、徴兵を逃れれるために自身のひ弱な体をよりひ弱に見せるため徴兵検査を本籍地がある兵庫県で行ったこと。健康診断で落とされたとき、「あれは間違いだった」というために追い駆けてこないか父親と駆けだして帰ってきたこと。それはコンプレックスとして一生三島氏を苦しめた。
*-*-*-*-*-*
しかし果たして氏は、それほど完全にすべてを企んで自らのプレゼンスを行ってきたのだろうか。
その作品や死も含めて氏の一生には、どうやら二つのコンプレックスが音楽のコードのように絡み合いながら鳴っていたような気がする。一つは、名声やら、真の肉体やら、願うものをとにかく得たいという獲得への小児願望、もう一つは影の和音のように、幼少の頃からの虚弱な肉体のせいで、戦争の祈りにも国家が必要としてくれなかったような肉体の故に差別され、肉体の犠牲を賭して戦う栄光から外された経験への恥の意識。それが初期の作品の中にも現れてくる突然の自己喪失、あるいは夭折への願望を育てもしたのだろう。
「三島由紀夫の日蝕」 石原慎太郎著
*-*-*-*-*-*
猪瀬氏は東京都副知事時代石原氏が君が代を冒頭歌い替えて歌っているのを耳にする
「わがひのもとは〜」
石原氏が語った言葉を猪瀬直樹は次のように書いている。
*-*-*-*-*-*-*
「天皇制の対談の件、どうしますかね、石原さん」
「俺、天皇キライ」
この話はこれであっさりと終った。
「昭和天皇は、日本が戦争に負けた日に割腹すべきだったのよ」
「太陽の男」猪瀬直樹著
*-*-*-*-*-*-*-*-*
まだまだ僕の三島由紀夫をめくる冒険は続く。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年08月26日
ペルソナ
中森です。
今朝は雲一つない晴天の夏の朝である。昨夜も雲一つないせいか満天の星空輝いている星や強い光を降り注いでいる星が見えた。
東京都知事を務めた猪瀬直樹氏の著書「ペルソナ」はすでに廃版になっているせいか、書店では売っていないのでAmazonが取り扱う古書店から取り寄せた。この本は20年以上も前に猪瀬氏の代表著書「ミカドの肖像」と共に読んだことがある。平岡公威氏について次のような記述がある。
*-*-*-*-*-*-
学習院の青年の番が来た。上着を脱いだ。助骨が浮き出た貧弱な胸、日光に躰を晒したことが無いのだろう、不健康な白さ。黒い胸毛が不釣り合いな印象を与えた。
米俵の前に立った青年に、百人の若者の無遠慮な視線が集中した。
青年は細い腕で米俵を抱えようとした。米俵はびくともしない、顔は力みで紅潮している。しばらく米俵との格闘がつづいた。
「ペルソナ」猪瀬直樹著
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平岡氏は徴兵検査を受けに本籍地がある兵庫県加古川市に東京からやってきた。東京よりも田舎の方が平岡氏の貧弱さが目立つであろうという理由からで、目的は徴兵を逃れるためである。加古川市には生涯二度訪れただけだという。結果は最低ランクの第二乙種合格であった。しかしその後の医師の検査が続いた。この時の様子を彼が書いた「仮面の告白」より引用している。
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「入隊検査で獣のように丸裸にされてうろうろしているうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイという音をラッセルとまちがえ、あまつさえこの誤診が私のでたらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即刻帰郷を命ぜられた。営門をあとにすると私は駆け出した。荒涼とした冬の坂が村の方に降りていた」
「ペルソナ」猪瀬直樹著
*-*-*-*-*-*-*-*
平岡氏の父親は入隊を免れることになった期待通りの結果に喜んだ。入隊検査に父親も同席していたのだ。そして門を出ると父は息子の手を取り駆け出した。
*-*-*-*-*-*-*
「早いこと早いこと実によく駆けました。どのくらいかは今は覚えていませんが相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。これはいつ後ろから兵隊さんが追い駆けて来て『さっきのは間違いだった、取り消しだ、立派な合格おめでとう』とどなってくるかもしれないので、それが恐くて恐くて仕方がなかったからです。」
「ペルソナ」猪瀬直樹著
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これが平岡氏の人生のトラウマとなったのかもしれない。無事兵役を逃れることになった病弱な青年であった平岡氏だが、その後彼はボディービルで体を鍛え、さらには天皇を中心とする国体を実現する楯の会を結社した。市ヶ谷で天皇は憲法で象徴となったことを自衛隊員に憂う演説をした後に自刃した。
平岡公威とは三島由紀夫のことである。
「ペルソナ」とは仮面のことである。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年08月19日
草津よいとこ一度はおいで
中森です。
群馬県にいる長男から今年のお盆はこっちに来ないかという提案があった。そして家族で草津温泉に行こうという。それまで我が家では温泉といえば加賀温泉ぐらいしか行ったことが無かった。草津温泉は言ったことがなく山の中にある温泉というイメージしかもっていなかった。
日曜日の朝早く起きて7時代の新幹線に乗り込んだ。長野で乗り換え高崎で降りた。高崎駅には息子が迎えに来ていた。これから車で草津まで行くのだ。高崎市内を抜ける道は混んでいて進みが遅い。これが草津まで続いているとなると相当時間がかかるのではないかと思う。しかし山手に入ってくると渋滞は無くなりスムーズに車は流れだした。以前政権が変わった時建設中止を求めていた八ッ場ダムが遠くに見える。これまで何度かダムにより下流域の洪水を防ぐことができたと息子は言う。道の駅は大盛況で車を停めるスペースを探すのが大変なくらいであった。手作りのハンバーガーをみんなで食べた。
温泉郷らしき佇まいがあるかいわいが見えてきた。あっさりと草津温泉街に車は入っていった。車を旅館の駐車場に停めそこから歩いて西の川原公園にある「西の瓦露天風呂」に行く。温泉に行くまでの散策道脇に流れている川の水を触ると温かい温泉が流れているのがわかる。硫黄のにおいが鼻につく。温泉はうっすらと緑がかっていて、原始地球であるマグマの存在を感じているようだ。露天風呂は広く温泉につかっている人、温泉中にある板場に上がりくつろいでいる人。湯治の雰囲気を湛えた初めての素晴らしい露天風呂であった。
その後街中を歩き温泉の中心である湯畑にたどり着く温泉の原風景を感じる。これが草津温泉のコアのイメージを形作っているのだと思う。その風景に圧倒される。温泉宿の風呂に入る。木造でできている浴場は歴史の流れを感じ近代建築で建てられた加賀温泉郷の浴場とはまったく異なる空間に満たされていた。悠久の時をさかのぼり湯治としてここを訪れた人たちの姿が目に浮かぶようだ。夜食事をしてから湯畑の一角にあるお店で射的をした。翌朝外湯である「大滝の湯」まで歩いて行ってきた。ここもまた温泉の歴史を感じるお風呂であった。
その感僕はひたすら三島由紀夫を読み続けた。三島と昭和と温泉が混ざり合い夢のような現実ではない時間を感じたのである。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2023年08月05日
戦前の日本
中森です。
ランニング・シューズをナイキのペガサス40に替えてから今のところ調子がいい。昨夜走ったときも序盤は安定して走ることができた。後半も何とか持ちこたえ16.57kmを走った。これはランニングマシーンでのことなのでこの距離は実際の道路に換算するとまあ13.5kmぐらいのランに相当するかもしれない。
今週は三島由紀夫の豊饒の第二巻「奔馬」を読んだ。それを読み終わってから辻田真佐憲氏の「「戦前」の正体」を読んだ。天皇と日本と天照大神についての関係性が分かった。これは僕の思想が右傾化することを意味するのではなく客観的な事実の認識と理解していただきたい。
*-*-*-*-*-*
日本はアマテラス(天照大神、日神)の直系である神武天皇の子孫によってずっと統治されている。他国では途中で王朝が断絶しているため。そのような例はない。それゆえに、日本は神の国である。
(略)
日本人はこの論理を学び、ふと気づいた。ならば、一度たりとも王朝が変わっていない日本はどうなのか。天皇家は、善政を敷きつづけた高徳の家系であり、天皇家をいただく日本は世界一の高徳の国ではないか。
辻田真佐憲著「「戦前」の正体」
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天皇を中心とした美しい日本が戦前はあった。しかし三島由紀夫はこの戦後の天皇制を否定していると小室直樹は書いている。
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象徴としての天皇制は、むしろ天皇を否定したものではないかと思う。
小室直樹著「三島由紀夫が復活する」
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天皇を中心とする軍隊ではなくなった自衛隊に三島由紀夫は絶望し、戦前の天皇制を取り戻すことを意図し「楯の会」を結団した。
戦前の日本はもちろん僕は知らないわけだが、祖父の言動を思い起こすとおぼろげながらその時代の空気を思い起こすことができる。
1980年の後半バリ島のウブドに滞在した時、そこで精霊の存在を感じたものである。5年前に再訪したときはすでに精霊は失われ、観光地化したリゾートエリアとして活気づいていたことと同じではないだろうかと思ったのである。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年07月29日
春の雪
中森です。
暑い日が続いている中、コーヒー店で三島由紀夫の豊饒の海(一)「春の雪」を読んでいた。ある個所に来た時僕は泣いてしまった。本を読んで泣くなんてこんなことは滅多にないことだ。物語が進行する内容はもちろんすごいのだが、情景を描写する表現のあまりの美しさに心を奪われる。
松枝清顕が聡子の美しさに目を奪われる表現に三島文学の神髄を感じた。
*-*-*-*--*-
池から体をめぐらす聡子の顔が、さだかにこの窓へというわけではないが、母屋のほうへ晴れ晴れと向けられたとき、清顕はそこに幼いころ、春日宮妃のおん横顔が、心ゆくまでうしろを振向かれなかったときの心残りが、六年後の今はじめて癒されて、もっとも願わしい瞬間に立会っているような気がした。
それは時間の結晶体の美しい断面が角度を変えて、六年後にその至上の光彩を、ありありと目に見せたかのようだった。聡子は春の翳りがちな日ざしの中で、ゆらめくように笑うとみると、美しい手がすばやく白く弓なりに昇ってきて、その口もとを隠した。彼女の細身は、一つの弦楽のように鳴り響いていた。
三島由紀夫著 豊饒の海(一)「春の雪」
*-*-*-*-*-*-*-*-*
清顕と聡子が「俥」に乗り込むこの俥は人力車のことだ。幌の中に雪が舞い込んでくるなかで二人は唇を重ねる。「自分の美しさと聡子の美しさが、公平に等しなみに眺められる地点からは、きっとこのとき、お互いの美が水銀のように融けあうのが見られたにちがいない。」
物語は思いもよらなかった方向へと進行し聡子との別れがやってくる。それはのちに永遠の別れとなることを清顕は知らなかった。しかしその予兆をおぼろげにも感じながら最後の言葉を交わす。聡子は最後の言葉を気品ある言葉で語った。
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その美しい大きな目はたしかに潤んでいたが、清顕がそれまで怖れていた涙はその潤みから遠ざかった。涙は、生きたまま寸断されていた。溺れる人が救いを求めるようにまっしぐらに襲いかかって来るその目である。清顕は思わずひるんだ。聡子の長い美しい睫は、植物が苞をひらくように、みな外側へ弾けて出て見えた。
「清さまもお元気で。・・・・ごきげんよう」
と聡子は端正な口調で一気に言った。
三島由紀夫著 豊饒の海(一)「春の雪」
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この「端正な口調で一気に言った」この言葉には女性としての品格と凛とした決意を感じる。その後想像もしなかった結末が読む者を襲う。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年07月22日
花嫁のれん号
中森です。
先日の連休に能登にある和倉温泉に行ってきた。これまでそういう時は自家用車で1時間半ぐらいかかけていくのだが、この時はのんびり行こうということなので家内と二人で10時15分発の花嫁のれん号に乗ることにした。この列車は「和と美のおもてなし」をコンセプトに、外観のデザインは北陸の伝統工芸である輪島塗や加賀友禅をイメージした内装で飾られている。
ホームは4番線と奥まったところにあった。ホームを横切るように「花嫁のれん」が飾ってあった。乗客はみなこののれんをくぐり列車に乗り込む。のれんの前には乗客が順番をつき写真を撮っていた。
花嫁のれんとは、幕末から明治時代にかけて加賀藩の領地内であった能登・加賀・越中で始まった婚礼の風習の一つで、嫁入りの時に嫁ぎ先の仏間に掛けられ、花嫁がくぐった。僕は花嫁のれん号どころか七尾線に乗るのは初めてかもしれないと思う。
僕はとてもきらびやかな内装に目を奪われた。
https://www.jr-odekake.net/railroad/kankoutrain/area_hokuriku/hanayomenoren/
津幡まではあっという間に通過した。津幡はとても遠いイメージなだけに意外な気がした。ほとんど金沢圏にあるような距離なのだ。先ごろの洪水被害がないか目を凝らすのだが沿線はなかったようだ。
それからは美しい田園風景の中を電車は進行する。夏の光と風でそよぐ田んぼの稲のコントラストを楽しみながら花嫁のれん号は和倉温泉についた。列車の中はまるでジブリの映画に出てくるような静謐な時間が流れていた。
和倉には速く着いたので和倉市内で昼食を済ませ温泉旅館のロビーで本を読んで過ごした。その後、温泉に入った後は本を読み続け時間を過ごした。
翌早朝の5時半に目が覚めた。携帯の目覚ましは6時にセットしておいたので予定より少し早く目が覚めたことになる。ウエアに着替えシューズをはいた。このランニングシューズは1週間前に買ったもので、それをはじめて履いてジムで走ったところ左足が痛くなったので僕の足には合っていないのではと心配していたものだ。おそらく紐を強く締めすぎたためであり、決して選択ミスを犯したのではないと楽観的に考えていた。それを実際に外を走って確かめようと思っていたのである。
このシューズは僕が先生と呼んでいる片町のバーのお兄さんに選んでもらったものだ。先生とは白山イオンのスポーツ店で偶然出会った。僕が全面的に信頼しているこの先生はサブ3.5という驚異的なスピードでフルを走り抜ける超人なのだ。買ったシューズはNikeのペガサス40。
これを履き5時45分ごろに温泉宿を後にし能登島大橋まで走りだした。橋までは約2km。最初は緩やかな下り坂だ。そして橋は全長1km。往復6kmという、ジャストサイズのコースである。
体がまだ起きていないせいか、何となく重たい感じだ。しばらく走ると6時00分にセットしておいた携帯がポーチの中で鳴った。そんな早朝にもかかわらず向こうからランナーが走ってきた。すれ違う時に手を挙げていったので僕もエールを送る感じで手を同じように軽く上げた。こういう瞬間は実はとても少ないことなので新鮮な感じがした。皆自分の中に入っているので普通挨拶はしない。僕なんかはそんな余裕はないからなのだが大会では折り返しのランナーとすれ違う時はみな完全に無視する。それほど限界に挑戦しているとともに、楽しんで走るなんてことをするくらいなら早くこの苦しみから逃れたいと思いながら走っている。
能登島大橋が見えてきた橋から海の風景を見る。これまで何度かこのような早朝ランで七尾湾を眺めたのであるが相変わらずその美しさに心を奪われる。高低差のある橋は微妙にきつい。市内ではこれほどの高低差を感じることはまずないからだ。
静かな海に対して起立する島。能登の海や島の風景は人口密度が少ないせいか自然が優位となり人の気配を消してしまっている。そのため土地が本来持っている精霊の棲家としての空間が依然として存在している。高低差に苦しみながら能登島大橋を渡り折り返してくる。この高低差は能登万葉の里マラソンでは序の口で能登島にはいるとまるでトレイルのような上下が襲ってくる。
時計を見ると36分ほどで往復したことになっている。僕にすればとても速いペースだ。軽く6km早朝の素敵な運動になった。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年07月15日
あらゆる技術は人間の利益に完全に沿うものでなければならない
中森です。
昨日、ジムで新しく買ったナイキのシューズで走ったのであるが違和感があり、特に左足が痛くなった。このまま走ってもいいものか不安である。しばらく走って様子を見てみようとおもう。
6月30日の日経新聞にマイケル・サンデル氏の記事が載っていた。「技術の未来」の話をしよう。という表題で、人工知能やバイオテクノロジーが発展を遂げている中で技術が人知を超えて進化する「テクノ新世」の時代をどう生き抜いていくべきかについて書かれていた。
記事の要点を抜き出してみよう
〇真の問題は「計算能力」や「予測する力」といった知性でAIが人間を超えるかどうかではない。AIによって、私たちが現実と仮想の区別を失うかどうかだ。
〇ポールマッカートニー氏がAIを使って古いデモテープからジョン・レノン氏の声を抽出し、ビートルズの新曲を完成させた。AIが発達すれば、彼らが作曲してさえいない「ビートルズの新曲」を彼らの声やスタイルでつくることができるだろう。本物と見分けがつかないとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
〇もし他の選手が遺伝子工学を利用して、大谷と同じくらい素晴らしい投打二刀流の選手になったらどうだろう。きっと私たちは天性の才能ど努力のたまものである大谷と同じようには、この選手を称賛することはできない。
〇遺伝子操作で子供の知能指数(IQ)を高めようとすれば子供に対する無条件の愛情を損なう危険がある
「技術の未来」の話をしよう 6月30日 日本経済新聞
7月14日にはドイツの哲学者マルクス・ガブリエル氏は「AIは異星人の知性」としそれには「人間的な科学」が必要としている。AIに脅威は悪用であり、そのことで人間の悪が増強され、独裁や犯罪などに使われると警告を発し次のように答えている。
〇あらゆる技術は人間の利益に完全に沿うものでなければならない。
〇ニヒリズムは「人間が存在することに意味はない」という。だが、私たちが生まれてきたことに意味があろうがなかろうが、神が存在しようがしまいが、我々は道徳的真実を見つけ出し、それを実践しなければならない。我々には未来を守る義務がある。それが「人生の意味とは何か」という問いへの私の答えだ。
と締めくくっている。
未来を守るために倫理が必要というマルクス・ガブリエル氏。薬剤師の未来はどうなるのだろうか。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年07月08日
一九七〇年十一月二十五日の奇妙な午後
中森です。
昨日の金沢の温は今年一番の36.8℃であった。午後から学校保健会の会合があり出席したのだがその後薬剤師会事務局に行った時から体調がすぐれなかった。家に帰り体温を測ったところ37.2℃の発熱。これ以上あがるとやばいなと思っていたものの石川県県庁勤務薬剤師会の懇親会に出なくてはいけないので頑張って出ることにした。自宅にあったアマゾンで購入した唾液でコロナを検出するキットで検査したところ陰性であったので、気温が上がったため体がそれに対する反応で上昇したのかもしれないと思うことにした。無事懇親会も終わり帰宅したところお酒も入っていたためかそのまま寝てしまったら今は通常の体温に戻っていた。
「羊をめぐる冒険」の最初の第一章は1970/11/25となっている。
*-*-*-*-*-*
奇妙に絡みあった絶望的な状況の中で、何カ月ものあいだ僕は新しい一歩を踏み出せずにいた世界中が動き続け、僕だけが同じ場所に留まっているような気がした。一九七〇年の秋には、目に映える何もかもが物哀しく、そして何もかもが急速に色褪せていくようだった。太陽の光や草の匂い、そして小さな雨音さえもが僕を苛立たせた。
(略)
結局のところ彼女が僕に求めていたのは優しさではなかったのだろう。そう思うと、今でも不思議な気持ちになる。空中に浮かんだ目に見えぬ壁にふと手を触れてしまったような悲しい気持ちになる。
「羊をめぐる冒険」村上春樹著
*-*-*-*-*-*-*-*
そして一九七〇年十一月二十五日の奇妙な午後のことを次のように書いている。
*-*-*-*-*-*-*
「いつも嫌な夢をみるの?」
「よく嫌な夢を見るよ。大抵は自動販売機の釣り銭が出てこない夢だけれどね」
彼女は笑って僕の膝に手のひらを置き、それからひっこめた。
(略)
「ねえ、私を殺したいと思ったことある?」と彼女が尋ねた。
「君を?」
「うん」
「どうしてそんなことを訊くんだ?」
彼女は煙草を口にくわえたまま指の先で瞼をこすった。
「ただなんとなくよ」
「ないよ」と僕は言った。
「本当に?」
「本当に」いけないん
「何故僕が君を殺さなくちゃいけないんだ?」
「そうね」」と彼女は面倒臭さそうに頷いた・「ただ、誰かに殺されちゃうのも悪くないってふと思っただけ。ぐっすり眠っているうちにさ」
「人を殺すタイプじゃないよ」
「そう?」
「たぶんね」
彼女は笑って煙草を灰皿に突っこみ、残っていた紅茶を一口飲み、それから新しい煙草に火をつけた。
「二十五まで生きるの」と彼女は言った。「そして死ぬの」
☟
一九七八年七月彼女は二六で死んだ。
「羊をめぐる冒険」村上春樹著
*-*-*-*-*-*-*
羊をめぐる冒険の第一章は16ページしかなくこのようにして始まりそして唐突に終わる。第二章は彼女が死んだ一九七八年から始まる。
1970/11/25の午後に三島由紀夫が切腹自殺したのだ。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋
2023年07月01日
もののあわれ
中森です。
金沢マラソンが当選してから若干モチベーションは上がり気味だ。月曜日に15.44km走ってから中2日ながら木曜日には11.13km走った。無理に15km越えを目指すのではなく10km程度を頻繁に走ろうかと思う。ところが予定がしばらくいろいろ入っているので今のところ時間がとれるのは週一が限界かもしれない。マイペースで調子を作っていこうと思う。そして派手なシューズを買いに行きたい。それが最近の楽しみである。生命保険の担当者の手紙がとどいた。僕と同じ年齢である彼は自転車を3年ぶりに走ることにしたそうだ。そしてロードレースにエントリーをしているという。社会が新しい時代になり動き出したみたいだ。
今週親戚のより集まりがあった。80歳を超えた家内のいとこも出席していた。今も金沢の文化人として一言持っている粋な心を持ち合わせたそんなお茶人さんだ。最近三島由紀夫を読み返していることを伝えるとこういった「三島は皇太后の美智子妃殿下と結婚したかったというのと、ノーベル賞を取りたかったのが生涯の目標だったのね。金閣寺も何度も読んだわ。あんな美しい文章を書けるのは三島ぐらいしかいないわね。あーあの人はね「きちがい」だったのよ。普通の人とは違うの。」80歳を超えた大先輩に言われるとその言葉は重たく聞こえた。
一昨日三島由紀夫氏の短編「憂国」を読んでから三島文学の神髄に触れたような気がする。昨日は三島氏と石原慎太郎氏との対談集「三島由紀夫 石原慎太郎 全対話」を読んだ。天皇制について次のように二人は語っている。
*-*-*-*-*
石原 天皇というのは、アブソルートネスとエタニティーというものに対する人間の願望の象徴でしょう。
三島 いや、僕は、アブソルートなもんじゃあないと思うね。全然、具体的なものですよ。
石原 それが具体的にあるわけでしょう。つまり天皇を日本人の思考や願望が具体的な存在にしたわけですよ。だから、戦国時代なんかでも、信長が「いいことを聞いた。将軍じゃなくて、もっと偉い奴がいるんだ」と、そういうものに対するある敬意を自然に持ちますよ。
これは裏返してみると、権力に対する日本人の無常感といいますか、一種の“もののあわれ”というものの願望じゃあないですか。
「三島由紀夫 石原慎太郎 全対話」
*-*-*-*-*-*-*
そんなわけで、三島由紀夫の「金閣寺」「憂国」「仮面の告白」から影響を受けた僕はもう少し時間をおいてから「豊饒の海」四部作を読んでみようと思う。そして金閣寺の最後に書いてある「生きていこうと私は思った」の意味を解明したい。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2023年06月24日
HOKA
中森です。
先週三島由紀夫氏の「金閣寺」を読んだことを書いたわけだが、その後「仮面の告白」をはじめとして7冊の三島由紀夫の小説や評論を読み続けた。何となくほんの数ミリではあるが三島氏の実像に迫ることができたかもしれないが依然として金閣寺で放火した溝口が「生きようと思った」の言葉の意味には迫ることができていない。文豪ナビ三島由紀夫 新潮社編では次のように『憂国』の解説の中で次のように書いてあった。
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肉体の、内臓の死に向かう烈しい痛みをここまでリアルに、克明に描いた作家が他にいただろうか。彼は自らの手による痛みが、ゆるやかに死につながっていく実感をこそ「至福」と考える人間だった。肉体的苦痛と死こそが、皮肉にも彼に生きていることの実感を与えたのだろう。彼は早いうちから至福の死を求め、そのためのシナリオを書き、舞台を用意し、その通りに演じてから、生きている実感を最後の瞬間に痛みとして自覚し、幸福感にわななきながら死んでいった。
「文豪ナビ 三島由紀夫」 新潮社編
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「文豪ナビ」では戦争で焼失の危機があった金閣は終戦を迎えたとき三島由紀夫はつぎのように「金閣寺」に書いていることを紹介している。
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戦争が終わった、終戦の詔勅をきいた日、金閣を一目見て、私は「私たち」の関係がすでに変わっているのを感じた。金閣は「昔から自分はここり居り、未来永劫ここに居るだろう」という表情を取り戻していた。私の心象からも、否、現実世界からね超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅固な美を示したことはなかった!
「文豪ナビ 三島由紀夫」 新潮社編
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三島由紀夫氏が言う「金閣寺」は何のメタファーなのだろうか。
昨日は金沢マラソンの発表の日であった。10時30分ごろから順次メールが届くとWEBに書いてあったのを思い出したので、12時過ぎに携帯をチェックしたのだがメールは届いていなかった。その時、今回は抽選に漏れたのだと思った。
その後藤井基之氏の叙勲祝賀会に出席するため新幹線に乗り込んだ。これまで三島由紀夫の美学にのめりこんでいた二週間であったが、さすがにこの日はお口直しにと思い車内では村上春樹氏の「スプートニクの恋人」をBOOK OFFで買ったのを読んでいた。もちろんこれも三島同様何十年ぶりかの再読である。
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でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。
「スプートニクの恋人」村上春樹著
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僕にとって日常のランはむだなことなのかもしれないと思う。さらにそれは僕の人生を不完全なものにしているのかもしれない。
新幹線の中で時々携帯を見るのだがメールは来ていない。これまでは少なくとも12時までには来ていたはずだ。3回連続で当選したので、さすがに4回目の当選はありえないのかもしれないと思う。15時20分、東京駅に新幹線はすべり込んだ。それから丸の内にある丸善書店で本を二冊買う。そのうちの一冊は日経新聞の朝刊の広告にあったものだ。
開宴まで時間があるので八重洲口のスタバに行くことにする。「スプートニクの恋人」を読もうと思うのだがメールが気になってなかなか読む態勢に入れない。その時いくら何でも15時過ぎてメールが来ないというのはおかしいと思う。何らかのトラブルでメールが届いていないのではと思いRUNNETのサイトに入ってみることにする。ところがパスワードが思い出せない。何度か跳ね返されかろうじて可能性のあるパスワードを思い出しログインすることができマイページにたどり着くことが出来た。エントリーのページに飛ぶ。目を疑った。
当選(未入金)
の表示があった。「当選したんだ」と冷静に思った。
いろんなことが頭の中をめぐる。前回の金沢マラソンの惨敗でモチベーションは最低の状態に陥った。ジムでは2kmで走るのをやめたこともあったし、帰りの車の中で足が攣ってしまい帰って来てから自宅のソファーで七転八倒したこともあった。そんな僕はこのままランの習慣をやめたらどうなるのだろうかと不安になっていた。
最近はとても調子がよく、12kmでやめようと思いながら先日は16.37kmを走り抜けることが出来た。このままマラソンは落ち続け10kmを走るのを人生の中核に据えればいいのではと思ったこともあった。僕にとってフルの過酷さは自分の能力をはるかに超え、人生の敗残者としての精神状態でゴールすることのみじめさを感じることに意味はあるのだろうかと思っていた。
しかしゴールした時にもらったおにぎりがホントにおいしかったことを思い出した。
昨日からいろいろ考えた。ランニングシューズを替えよう。前々回、ゴール間近の橋を渡っている時に見るからに老人のランナーに吹かれてしまった。その上品な風格を湛えたランナーはオレンジ色をしたHOKAの素敵なシューズを履いていた。その時からなぜかHOKAにあこがれを持つようになっていた。HOKAのクリプトン9を買おうかとおもった。そして距離は短くても走る回数を増やそうか。それならば帰ってからでも本を読むことはできるのではと思った。
とにかく今年も金沢マラソンに出場することになった。これは僕にどんな意味をもたらしてくれるのだろうか。しばらく考えてみたい。
*RUNNETからのメールは迷惑メールのフォルダーに収納されていた。
今日はそんなとこです
では
中森慶滋
2023年06月17日
金閣寺
中森です。
村上春樹氏の「街とその不確かな壁」を4月に読んだ。これは1980年『文學界』9月号に掲載された。その後1985年に「世界の終わりとハードボイルとワンダーランド」が発売されたのだが、習作的なこの作品は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の原案としたものだと村上氏は語っている。さらにWikipediaには「この作品は、『1973年のピンボール』が芥川賞候補となったことにより、その受賞第1作として発表することを意識して書いたと、村上自身がインタビューで明らかにしている。」と書かれていた。
世界の終わり・・・を再び読んでみたくなった。そこで膨大な本で埋めつくされている車庫の中から20代に読んだこの本を探し出せばいいのだが、どれだけ時間がかかるかわからないためBOOK OFFに行って買ってくることにした。件の本は容易に見つかった。ふと近くを見ると三島由紀夫の本がずらりと並んでいた。平野啓一郎氏が『三島由紀夫論』(新潮社 2023年)を最近出版しそれを本屋で手に取っていたのを思い出す。僕にとっての三島の思い出は「金閣寺」に集約される。
学生時代のこと。「タクシー・ドライバー」で有名なポール・シュレイダー監督が三島由紀夫の映画「Mishima」を制作するといううわさが流れた。有名な三島と東大学生との討論を再現するらしい。緒形拳が三島の役を演じる。これを僕が通っている大学で撮影するというのだ。
あるとき学内に学生のエキストラを募集するという張り紙を見かけた。僕はエキストラに応募した。撮影当日は映画好きの友人や学生闘争の時にいたようないまだ髪を長くした1970年代風の風貌の学生たちも駆けつけていた。この映画は様々な勢力の感情を刺激するということなのか、なぜか日本では封切られることはなかった。僕は何かの時にこの映画を見たことを覚えている。「Criterion Collection: Mishima: Life in Four」三島と東大学生が討論するシーンが出てきた。しかし僕が映っているかと目を凝らして見たのだが見つけることはできなかった。
緒形拳さんが外国メディアの取材を大学の講堂の片隅にある談話コーナーでインタビューを受けていた。「私はこの映画が自分の代表作になると考えている」と語っていたのを覚えている。
それから僕は「金閣寺」を読んだ。僕は三島文学に圧倒された。そしてお盆に実家に帰ったとき、車を借りて一人で京都まで行き、「金閣寺」を見てこようと思った。金沢から金閣を見るために僕は出発した。朝早く出発した僕はお昼前には金閣についた。金閣寺の構内に入っていった、僕の目の前に現れた金閣をみて小説の溝口が父から聞いた「金閣ほど美しいものは此世にない」という言葉を思い出した。その時の情景は薄らながらにいまでも記憶に残っている。
家に帰るとニュースで「今日は京都五山の送り火が行われました」と映像が流れているのを覚えていたので僕が金閣寺に行ったのは8月16日だったことになる。金閣寺は京都五山の一つ左大文字山のふもとに位置している。
そして先週のこと。僕はBOOK OFFで「金閣寺」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド上下」を買い、村上春樹をとりあえず置いといて三島を読むことにした。
以前読んだときの感性が蘇ってきた。読み進んでいくうちに「なんというすごい小説だと思う」人間の持つ美しさを感じる感性の奥深さ、昭和の文体ながら一つの事象についての様々な観点から書かれている記述にのめりこんでいった。再読ながらこれほど内容に満ちた素晴らしい小説はこれまで読んだことが無いのではないだろうかと思いながら僕は読み続けた。
京都の舞鶴の貧しい寺に生まれた溝口は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされて育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての存在であり、溝口はそんな金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。溝口は吃音者であり自分を醜いものというコンプレックスをもって育った。そして自分と金閣を対比して「私という存在は、美から疎外されたものなのだ。」と思い続けた。そして溝口は金閣を実際に目の前にした。
溝口は友人の柏木から金を借り、寺から出奔し、故郷の舞鶴湾に向かった。由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念の啓示に搏たれた。
京都に帰ったとき柏木は溝口に、「この世界を変貌させるのは認識だ」と説いたが、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁した。そしてこう言った。
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「美は・・・・」と言いさすなり、私は激しく吃もった。埒もない考えではあるが、そのとき、私の吃もりは私の美の観念から生じたものではないかという疑いが脳裏をよぎった。「美は・・・・美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」
「金閣寺」 三島由紀夫著
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金閣を焼こうと金閣の前まで来たとき、あまりにも美しい金閣を前にして溝口はその美しさに言葉を失う。
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が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。このくらいうずくまった形態のうちに、私が美と考えたものの全貌がひそんでいた。思い出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝播して、ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光の下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。
「金閣寺」 三島由紀夫著
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それから三島氏は金閣の美しさについて、二ページにわたりあまりにも素敵な言葉をちりばめている。金閣の美しさは美を呼び込む細部が流れを生み出しそれが次の美、次の美へとそそのかされ完結を知らないと書き、さらにそれを次のように表現している
「どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢見ながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の兆しだったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。そこで美のこれらの細部の未完には、おのずと虚無の予兆が含まれることになり、木割の細い繊細なこの建築は瓔珞が風にふるえるように、虚無の予感にふるえていた。
「金閣寺」 三島由紀夫著」
虚無とは存在の否定なのかもしれない、それが金閣を焼かねばならぬと思ったのかもしれない。金閣に火をつけた溝口は金閣が燃えている火の粉が頭上に浮遊し渦巻いているなか、金閣を眺めていた。
そして有名な文章が最後に書かれている。溝口はなぜ燃えている金閣を見て「生きようと私は思った」のだろうか。三島は三島文学で美とは破壊することを暗示し、自身も自決したではないか。
今日はそんなとこです。
では
中森慶滋